ヒュプノス 日が落ちた後の客−特に、約束もなしの−は、 有難いものではない。たとえそれが、夕飯のおすそわけだとか、 預かっていた荷物を届けてくれただとか、そういった善意の理由からだとしても。 体調が優れぬ日には、なおのこと。 感謝の言葉を思い出すまでに、時間がかかる。 そういった理由のない訪問となれば、はっきりと、迷惑。 その日。 死武専北ヨーロッパ支部では、1週間前にダウンしたシステムが 漸く復旧したところだった。当世、どのような職種であっても、 コンピュータなしでの業務はひどく効率が悪い。 特に、世界各地にある支部及びアメリカ本部との連携を 密に取る必要が高まっている現在の死武専の状況下では、 それは死活問題でもあった。 ゆえに、エンジニア達は全てシステム復旧作業に借出され、 その他の事務員らは、エンジニアらが普段行っていた、 コンピュータ関連以外の業務を処理せねばならず。 更に言えば、元々、その事務員らが負担していた仕事量も少なくなく、 今度は人のほうがパンクしそうになり。 普段は外回りが多い北ヨーロッパ担当デスサイズであるジャスティンも、 猫の手もなんとやら、事務要員として支部長にひったてられたのであった。 外出先から、現状データを送ることも多く、ジャスティンは比較的パソコンの 扱いに慣れている。それに加えて、機械系には免疫があったことから −改造バイクの実績云々ー、教えれば教えただけ、 処理法を覚えてしまう。そんな面が災いして、最終的には てんやわんやの事務所内で、最も処理案件の多い部署に据えられていた。 連日4時間ほどの睡眠−それでも多いほうで、ほとんどの職員は 平均睡眠時間2時間をきっていたーで働きどおし、 システムの回復とともに解放されたのが、19時半。 そこから1週間ぶりとなる自宅アパートへ帰宅。 玄関の鍵をあけたときには、21時をまわっていた。 同僚上司は、もう今日は支部に泊まるかー既に7泊しているが−、 奮発してホテル代を出してやるから、そこに泊まれ、とまで言ってくれた。 実際そうしようかとも思ったが、予想外の事態で期せず空けることになった部屋。 換気もしたいし、それに結局のところ、自室のほうが落ち着ける。 そうした意図もあって、ジャスティンはカンパの提案を丁重に辞退して 家路についたのである。そんな経緯があったものだから、 洗濯と軽い掃除を終えたところで、 玄関の呼び鈴が鳴った時の苛立ちは大きかった。 呼び鈴を2度無視してしまうくらいには。 3度目のそれで、自分の過ちを神に謝罪し、しぶしぶドアを開ける。 「ギリコさん」 開けた視界に映ったのは、睡眠不足でしょぼつく目には些か眩しい赤毛。 「よお」 出迎えたジャスティンを、ふてぶてしく見返し、ギリコはにやりと笑う。 「ひでぇ顔」 そのひと言は、今のジャスティンの疲労を指すものなのか、それとも 全く予想しえない珍客に驚き、呆けたそれのほうを指すものなのか。 一瞬自分の中で考えた後、両方でしょうね、と結論を出す。 それから、どうぞ、とドアを押し開けた。 「タイミングがいいですね」 「何が」 「今日まで1週間、留守にしていました。帰宅したのもつい2時間前です。 少しずれていれば、お会いできませんでしたよ」 「へえ…、ま、いなけりゃいないで、ドア壊して入りゃ済む話だけどな」 手近にあった椅子を引き寄せ、そこに腰掛けたギリコは、 事も無げにそんなことを言う。確かに、その身に鋸刃を宿す彼なら、 言葉を実行するに何の苦労もないだろう。 ドアの修繕費、その後の部屋の掃除の労を試算して、ジャスティンは 先ほどの自分の発言を修正した。 「…私にとっても、タイミングがいい」 「…だな」 しおらしく肩を落とすジャスティンを見て、ギリコは満足げに笑う。 溜息を吐き、ジャスティンはキャビネットからグラスをふたつ、 冷蔵庫からはガス入りの水を取り出した。 「それで、今日の御用は?」 言いながら、冷えたガス水を満たしたグラスを手渡す。 ワインくらい用意しとけよな…、と不満を漏らしつつ、 ギリコはそれに口をつけた。 「ああ、ちょっとこの近くで仕事があってな。で、 宿泊代浮かせようと思って、寄った」 「仕事…どの辺りで、ですか?」 「はっ、それを言うわけねぇだろ」 呆れたように鼻を鳴らし、ギリコはガス水を飲み干した。 無言でグラスを突き出し、2杯目を要求する。 それに応えながら、ジャスティンは溜息混じりに付け加える。 「可能なら、せめてむこう3日は北部ヨーロッパでは暴れないで下さい。 戦えと言われればそうしますが、正直なところ、億劫ですから」 「…そんなんでいいのか、デスサイズが…」 自分のグラスにも、2杯目のガス水を入れて飲み干す。 それから、冷蔵庫から、最後の1本を取り出し、ギリコに投げて渡す。 「…神がお与えくださった職務すら億劫に感じてしまうほど、 疲れているんですよ」 でも、珍客に驚いてしまって、肝心の眠気はどこかに行ってしまいましたね。 眠りたいのに、眠れない、なんて。 掃除をしたのも悪かったのかもしれないけれど。 そう言って、ギリコが聞く限り、本日3度目の溜息を吐くジャスティン。 「じゃあ」 ギリコが座る椅子から、彼の足で2歩半。 部屋の隅に無造作に置かれた小型冷蔵庫の前に、ジャスティンは座っている。 グラスを置き、その2歩半を埋めて、 ギリコはジャスティンを見下ろす位置に立った。 「よく眠れるように、してやるよ」 「ああ…驚きすぎて、忘れていました。…知ってます? 宵の、ふいの来客ほど有難くないものはない。 場合によっては、むしろ迷惑、って」 「ベッドに行くか、ここか?」 「ミルクのほうがいいです。あったかいミルクのほうが、眠れそう。 買って…むしろ帰ってこなくていいです」 「途中で寝られてもあれだしな…ここのがいいか」 「……あなたの耳、便利にできてるんですね」 「対おまえ仕様にしてんだよ。…で?」 しゃがみこみ、ギリコはジャスティンと視線をあわせる。 もう抵抗するのも面倒…というか、時間の無駄、と、 ジャスティンは溜息を吐いた。 「では、ベッドで」 |