詩と真実 「お入りになったら如何ですか」 扉を取り巻くようにして、聖人たちが彼らに相応しい姿で並んでいる。 この扉を開けた先にある光景を、ギリコは知っていた。 黒ずんだ木の椅子が幾列も並び、その奥には祭壇。 そして、その祭壇の真上には、蒼いステンドグラスがあるはずだ。 そして、そのステンドグラスが作り出す蒼い陽だまりには。 そんなことを考えて、目の前の扉を押そうかすまいか悩んでいる ギリコの背に、もう聞きなれてしまった声が届く。 ふいをつかれた気まずさから、振り向くのが少し遅れた。 声の主に背を向けたまま、表情を整えるギリコを余所に、 相手は楽しそうに言葉を繋ぐ。 「幾度か尋ねて来てくださったとか」 「ちっ…!ちげぇよ!!」 折角取り繕いかけた平静は、2秒ともたず霧散した。 振り向く、というよりは振り向かされた先で、青年が微笑む。 「そう、ですか」 微笑を浮かべたまま、ジャスティンは自らの足元に 視線を落とすーそこには、僧服の裾をきつく握ったひとりの少女がいるー。 「…あ」 見覚えのある少女の顔に、ギリコは思わず声を漏らした。 そう、一週間前にギリコがこの教会を訪れた際、 物陰からこちらを窺っていた少女だ。 ついでにいうなら、迂闊にも、ジャスティンの所在を尋ねた相手でもある。 記憶を辿り、渋面をつくるギリコを余所に、ジャスティンはつかつかと 彼ー正確には聖堂内へ通じる扉ーとの距離をつめた。 歩みとともに、カサカサと紙のすれる音がする。 近づいてくるその顔をよくよく見れば、頬や額には 白っぽく乾いた土が付着し、着衣もまた、ところどころに汚れが見えた。 「裏に農園があるんですよ」 訝しげな視線に気づいたのか、ジャスティンは片手に持った紙袋を ギリコに示す。 言葉のとおり、そこには玉葱、茄子、といった野菜が詰められていた。 ジャスティンにつられたように、少女もまた手にした袋を前に出す。 「どうぞ、よろしければ昼食でも?」 ジャスティンの作る料理は、塩辛い。 湯気をたてるシチューを、スプーンで掬えば、申し分のないとろみと、 香りがたつ。具は、先ほどの玉葱と、保存食のひとつである酢漬けキャベツ、 そして柔らかく煮込まれた鶏肉である。 皮付きのまま茹でられたじゃが芋には、上部にナイフで切れ目が いれられ、そこにたっぷりとバターが塗りこまれていた。 じゃが芋の皮の上を、溶けたバターが伝い、甘い匂いをさせている。 これらの食事に、ワインとパンが添えられ、一見とても豊かな食卓に見える。 内心ホクホクとしながら、シチューを口に含み…ギリコは顔色をなくした。 ギリコの故郷、チェコの料理も、南欧のそれと比べればだいぶ塩気がきつい。 しかし、ジャスティンがテーブルに並べた皿は、それに輪をかけて塩辛かった。 じゃが芋から滴るバターがなければ、飲み込むことも難しかったろう。 「ハァ…」 なんとか料理を飲み下し、余ったワインで口直しをする。 同様に食事を終えたジャスティンと少女は、手をつないで 食堂を出て行ってしまった。ギリコはひとりでグラスを干しながら、 なんとなく、窓からの日差しがテーブルに切り取る赤を眺めていた。 数十分が経ち、食堂のドアが軽くノックされた。 返事を待たずに開いたドアからは、ジャスティンが顔を出す。 「おかまいもせずにすみません」 「や、勝手にやってるし」 ぬるくなりつつあるグラスを上げて見せると、 ジャスティンは薄い笑みを頬にのせた。 「食事はあまり、口に合わなかったようですね」 「…塩辛いんだよ…」 「おや、私にとってはこれが普通ですよ。それにあなたの国の料理も、 似たり寄ったりの塩分濃度だったと思いますが」 「…レーフ村はだいたい薄味なんだよ。…塩が貴重だったしな」 「そうでしたか。では、覚えておきましょう。次に活かせるように」 話しながら、ジャスティンは手早く自分のぶんの茶をいれる。 そのカップを手に、ギリコの真向かいの椅子を引いたところで、 窓の外から彼の名を呼ぶ声がした。 食堂の窓は、壁から少し外側に張出している。 張出した部分ー花の鉢や、インテリアも置けるーの端にカップを置き、 ジャスティンは窓を開けた。興味をひかれて、ギリコも立ち上がる。 空のグラスはテーブルに置いたままで、ジャスティンの後ろ ージャスティンが窓枠の右寄りにいるため、自然左側に立つ形になったー に立って、外を見下ろす。 街の高台にある、この教会を、円形に囲む形で 白い壁とこげ茶の屋根を持つ家々が並んでいる。 町中にひときわ高くそびえる尖塔には、黄金色に彩色された時計台。 遠景から視線を窓の下に戻すと、先ほどの少女がこちらへ向けて 手を振っているのが見えた。 「おまえ、いつもこんなことしてんのか」 少女へ向かって、手を振り返しているジャスティンに、ギリコが尋ねる。 目線は少女に留めたまま、ジャスティンはそれに答えた。 「いいえ。ここへ来るのは月に一、二度です。教会運営のお手伝いで。 …まあ、息抜きですね」 「……ガキがガキのお守りかよ」 「最近は、仕事で、子供みたいな大人をあやさねばならないことが多くなって。 その方に比べれば彼女は、私より長くここに通っているし、 そのぶん目上とも接してきたようで、とても落ち着いていますから、 手がかかりません」 「へぇ……って、あぁ?」 その子どもみたいな大人ってのは、誰のことだ、と低い声を出せば、 ジャスティンのほうは、おや、思い当たることでも?と涼しく返す。 眼下の少女は、一度大きく手を振ってから、 教会から町へとなだらかに下る道を駆けていく。 ジャスティンは、少女がもはや振り返らないことを確認して、その手を下ろす。 手は、ジャスティンの胸の前まで下ろされた後、暫し躊躇うような動作を 見せたが、やがて僧服のポケットに収まる。 そこから取り出されたのは、一枚の紙片だ。 銀色の特殊印刷で、死武専、及びジャスティンの名が印字された名刺である。 それをギリコに差し出す。 「御用ならこちらのほうが、お相手できる確率が高いですよ」 「別に、」 別に用があるわけじゃない、と言おうとして、ギリコは口を噤んだ。 BREW争奪戦の際に負わせた傷が癒えぬ間に、デスサイズの一角を 崩してしまおうと考えて、わざわざここへ足を運んだというのに、 それをいつの間にか忘れて、あろうことか、その標的と馴れ合っている現実に 気づいたからだ。そもそもジャスティン不在の間に、 この教会を壊してしまっても良かった。 ふつふつと後になって思いつく事柄に、自分の間抜けさ加減を実感させられ ギリコは眉間に皺を寄せた。 「死武専北ヨーロッパ支部?死神の族がたまってる場所じゃねぇか。 そんなところにノコノコ出かけるほど馬鹿じゃねぇぞ」 差し出された名刺を一瞥し、吐き捨てる。 アラクノフォビアの本拠地であるババ・ヤガー城と違い、死武専はその 国際的な役割から、組織体系及び全ての支部の位置を公にしている。 今更北ヨーロッパ支部の場所が分かったところで、何の益もない。 従って、ギリコにとって目の前の紙片はただのごみでしかなかった。 受け取る素振りを見せないギリコの目の前で、 ジャスティンはその名刺を裏返す。 真っ白な裏面には、流麗な筆記体が記されていた。 字面を目で追い、それが特定の場所を示すことを確認したギリコは、 むしろ呆れて、ジャスティンを見た。 「いいのかよ、おまえ…」 「構いませんよ」 ついでに言うなら、プライベートで借りている部屋ですから、 死武専がらみの人間はいませんし、 と言葉を継ぎながら、ついていた肘を外し、背を伸ばす。 そうして初めて、ギリコのほうへ向きなおったのだが、その視線は 彼を通り過ぎて天井へと向かう。ギリコも首だけねじまげてそちらを見ると、 体長2センチほど、大きく膨れた腹を持つ蜘蛛がそこにはりついていた。 アラクネの蜘蛛だ。 小さな、数多の複眼で、この場景を主人のもとに 送っていることは確かだった。 「私…もといデスサイズには、恐らく最低一匹は監視がついているようです。 ですから、この部屋のことも、あなたの女主人は既にご存知でしょう」 「ここや、その支部を巻き込みたくない…ってわけか」 それで自分を盾にするとは、泣かせるな。 ギリコの声には、嘲弄がまぶされていた。 ジャスティンは、ふむ、と口の中で呟き、それらの言葉を噛み砕く。 「…さて。誰にも邪魔されず、あなたに会いたいだけかもしれませんよ」 思いもかけない台詞に、ギリコは中途半端に顔を引きつらせた。 笑おうとして笑えず、そんな自分に腹をたてる。 「…と、言ったら、……信じますか?」 固まるギリコを余所に、ジャスティンは悪戯っぽい笑みを作った。 開いていた窓を閉め、冷めてしまった自分のカップを手に、窓辺を離れる。 手にしたままの名刺は、ギリコがテーブルに置きっぱなしにしていた ワイングラスの隣に置いた。その手が、そこから離れるより少し早く、 ギリコはそこに自分のそれを重ねる。 窓辺にいるギリコに対して、ジャスティンは完全に背を向けた形でいる。 右手の上に置かれた手、右頬に感じられる呼気、 振り向くまでもなくそれはギリコとの間の、あるかないかの距離を伝えてくれる。 「ギリコさん」 右後方へ目をやるとほぼ同時、ギリコのほうも、テーブルについた右手に 体重を乗せて、ジャスティンの眼前にその顔を寄せた。 反射的に体を引こうとするが、背後から回されたギリコの片腕がそれを阻む。 左肩を抱き込まれ、そこに走った痛みに、ジャスティンには珍しくその顔を歪めた。 ギリコのほうでも、その変化に気づく。 BREW争奪戦の際に、自分がつけた傷。 鋸刃で貫いた左肩。脳裏に浮かぶ、数ヶ月前の戦闘の記憶。 それがもたらす興奮に突き動かされ、ギリコは左肩に置いた手に力をこめた。 逃れようとするジャスティンに唇を寄せる。 双方の意図が食い違った口付けは、 悪戯に互いの唇に傷をつけるだけで終わってしまう。 「ギリコさん…痛いです」 「痛いのは嫌いじゃないんだろ」 ギリコは、ジャスティンの唇に滲んだ血をぺろりと舐め取る。 「実は俺も、おまえに会いたくてここに来たんだ」 そう告げるギリコの顔は、皮肉な笑みで満ちていて、 その言葉の不実さが伝わってくる。ジャスティンのそれと同様に。 ジャスティンは目を見開き、それから、呆れたように、 くすぐったそうに、首をすくめた。 |