共感の粉、とある幕間 女の細い体を抱え、ギリコは木々の間をすり抜けていく。 チェーンの回転を利用し、細心の注意をもって進みながら、 また細かい木の枝が、アラクネに傷をつけることも許さない。 死武専生との戦闘が行われた場所から、一足はやく脱出した。 追ってくるかと思われたデスサイズは、 どうやら死武専生の保護を優先したらしい。 数分進んだところで、地面が大きく揺れ、 ギリコ自慢のゴーレムが破壊されたことを伝えてきた。 舌打ちをこらえて、ひとつ、大きく息を吐く。 ギリコはアラクネに声をかける。 「何処へ行けばいい」 「北へ。迎えが待っています」 アラクネの答えは、簡潔だ。 時折、ギリコの腕の中で、暫くしたら左、今度は右と指示を出す。 その指示に従い、ギリコは進路を変え、ひたすらに進んでいく。 森はいっそう深く、暗くなるが、アラクネの指示に迷いはない。 小一時間ほど走ったところで、唐突に森が拓けた。 かすかに差し込む陽光のもとに、 黒いロールスロイスが浮き上がって見える。 「アラクネ様!お久しゅうございます」 ちまちまとアラクネ、そして彼女を抱えたギリコのほうへ 回り込んできた老人は、感極まった声を漏らし…、そして硬直した。 「…俗物が。まだアラクネ様に付きまとうか」 「ご挨拶だな。ここまで姐さんの足になってきたってのに」 車へと続くレッドカーペットの端に、 アラクネを降ろしてやりながら、ギリコは獰猛な笑みを浮かべる。 「さあ、ドアを開けろよ。アラクネと、この俺様の凱旋のためにな」 バックミラーを通して、モスキートの視線がギリコに突き刺さる。 その視線をむしろ、心地良く受け止め、ギリコは口の中で小さく呟いた。 「回転速度一速」 一瞬の後、ガラスの欠片を撒き散らしながら、ロールスロイスの屋根が吹き飛ぶ。 「これで息がつけるな」 高級車を躊躇いなくオープンカーに仕立てたギリコは、 悪びれない笑みを モスキートの背に向ける。 モスキートは、暫し声もなくその口を開閉させていたが、やがて 恐ろしく低い声を絞り出した。 「この、俗な不良めが」 一連のやりとりを見守っていたアラクネは、扇の裏に呼気を吐く。 「よい。疲れたな。早く城へ」 一触即発であったふたりの間に、アラクネの鶴の一声が響く。 途端にモスキートはその牙を収め、ハンドルに意識を集中する。 高級車は、森の中を、そろそろと進みだす。 窓枠に僅かに残ったガラス片を落とし、ギリコはそこに肘をのせ、 頬杖をつく。 「ギリコ」 唐突に名前を呼ばれた。 相変わらず、扇で口元を隠したまま、 アラクネは続ける。 「城へ着いたら、あなたはまずその足をなんとかしなさい」 「…足?」 言われて、自分の足を見る。 今の今まで気づかなかったが…右足、膝のすぐ下に、 ななめに走った傷がある。 深いとは言えない傷だが、意識すれば それなりの痛みを覚えた。 「森の中でも、時々姿勢がゆらいでいたわ」 「気づかなかったな」 「…なまったのかしら」 くつ、と喉を鳴らすアラクネを軽く睨み、ギリコは右足を 左膝の上に引き上げ、裾をめくり上げた。 戦場を脱する際の光景を思い返す。 デスサイズがこちらに向けてかかげた掌、それになんともいえず、 嫌な感じを覚えた。アラクネを抱えたままだという リスクを冒しても、対処せずにはいられないほどに。 ゴーレムが倒れたことを考えれば、その際取った以下の行動は まったく正しかったといえるだろう。 あの時、本能的に危険を感じ、咄嗟にチェーンソーを回転させた。 足止め程度になればいいと、作り出した衝撃波は、 デスサイズの掌を切り裂き、血の帳と長い指の合間から見えた瞳が 大きく見開かれる様を見た。 『ザマを見ろ』と、そのときギリコは薄笑いすら浮かべて 彼に背を向けたのだった、が、ギリコが負った右足の傷もまた、 そのときに負わされたものだろう。あれ以外に焦りを覚えた場面など なかったのだから。それこそ傷にも気づかぬほどの、など。 今度こそ高く舌打ちをして、 ギリコはキャビネットの中のウィスキーを掴み出し、 ボトルの口に直接唇をつけた。一息に口内に含み、ひと呼吸おいて それを患部に吹きかける。チラチラとバックミラーでもって、 後部座席を 窺っているモスキートが、あからさまに嫌な顔をする。 ゆるやかに血を吐き出す傷を、裂いたシャツで押える。 じわじわと、赤く染まる布越しに、そこをきつく、握りしめた。 「次は仕留めてやるさ」 |