flowers 揚げた蛸と、オリーブオイルの香り。 屋台で客を呼ばう、威勢のよい売り子たち。 そんなものに目を奪われていて、青年は 常に視線の先にあったはずの影に追いつき、 彼を追い越してしまっていたことにさえ気づかないでいた。 奔放にはねた髪型を、そのまま地面に写し取ったそれを、 一歩か二歩、後方に置いたところで、漸く視界に違和感を覚える。 「サガ?」 振り向く。 からりと乾いた地中海の風が、幾筋かの毛束を崩し、 視界に縞を作る。煩げにそれを払い、連れを探す。 「ああ、すまない。…少し待ってもらえるか?」 サガ、と、そう呼ばれた男も、そうされて初めて、 置いていかれかけたことに気づいたようだった。 青年の数メートル後方で、照れくさそうに笑う。 「ええ、もちろん」 サガが興味を示したのは、ひとつの屋台。 居並ぶ他のそれと、別段変わった点は見当たらない。 異なる点といえば、売り物に、 覗き込まなければ分からないほどに しっかりと蓋いがかけられている点だ。 屋台から数メートル離れている青年の立ち位置からは、 その品が何かは確認できない。 ただ、かすかに、甘く、胸のすくような香りが、そこから漂いでている。 調度品、嗜好品に始まり、なにかと煩い男が目をつけた屋台だ。 不思議な香りのモト−香水か、それとも…−の値打ちを測りつつ、 青年は屋台の軒下に立つ。 ペンキが剥げ、潮風による傷みが各所に見受けられる、 木作りの屋台だった。みすぼらしいそれと、 秘密めいた売り物とのギャップが、青年の好奇心を擽る。 「…見せてもらっても?」 品定めをするように、あちこちに目を配る青年に苦笑しつつ、 サガは、店主にそう伺いを立てた。 品物にかけた蓋いを、慎重になおしていた初老の男は、 破顔して、そっと、布を取り払う。 途端に、その狭い空間に漂う香りが濃度を増す。 白、ピンク、赤、青…、細かなグラデーションも入れれば、 それこそ、色とりどりの花が、ところ狭しと並べられていた。 サガはその中の1本を手に取り、くるりと手の中で回す。 白い花びらと青い花びらで構成された、気品ある花だ。 外層を形作るのは、大きく開いた白い花びら。 それに包まれるようにして、白のそれと比べれば、 花びらの面積は5分の1ほどの細長い、青い花びらが幾重にも重なる。 さらにその内側には、青い花びらのその色を、数倍濃くした冠状の雄蕊。 雄蕊に抱かれるようにして、黄色の雌蕊がひっそりと揺れる。 「…見事な出来だな」 心底から出たに違いない賛辞の言葉に、店主は頬を緩めた。 通行客に見せることよりも、花を潮風から守ることに重点をおいた 売り方といい、この笑顔といい、 彼が心から大事に育てた花だということが分かる。 「シド」 もう一度、くるりと花を回し、全体を鑑賞してから、 サガはそれを青年に手渡す。 「…え」 弱弱しく揺れるそれを、おっかなびっくり受け取ったシドは、 先刻サガがしていたように−ただし、かなりぎこちなく−、 手の中の花を観賞する。 鼻をかすめる香りや、柔らかな花びらの感触を確かめる。 「美しい、花ですね」 「ああ、アネモネ、というのだ」 感嘆の息とともに吐き出された言葉に、サガは補足を加える。 シドは、そんな連れを見上げ、唇をゆるめる。 「花にもお詳しい? …では、こちらの…この花はなんというのでしょう?」 花の強度を掴んだのだろう。 先ほどよりは幾分気軽に、左手に花を持ち替える。 空いた手で指差すは、赤やピンクの花にうもれかけていた薄緑の花。 すかさず、店主がその花を器から引き抜き、シドに手渡してくれる。 「……ああ、それは」 花びらは、二層。 外層の面積が広く、内層のそれが少し小さめなのは、 シドが持つ白い花と同様だ。 花びらの中央には、先端を内側に柔らかくカーブした雄蕊と、 やはりそれに隠れるよう、丈短い雌蕊がある。 花びら、雄蕊はともに薄緑色。 雌蕊はそれに、ほんのり黄色が混じっている。 じっ、とそれを見つめてから、サガは救いを求めるかのように店主を見た。 「…アネモネですよ」 苦笑しつつ、返ってきた言葉に、2人はそれぞれ目を見開いた。 「ほう?…ずいぶん形が違うが…同じ種類なのか」 「本当に?」 先ほどよりも、明らかに2人の上体は、店主側−花のほう−に寄っている。 2人の吐息から花を守るように、さりげなく布をかけなおしながら、 店主は説明を加えた。 「はい。今日揃えているのは、全てアネモネです。 今が盛りの花で…、なにより、形、色の違いが楽しめるでしょう」 お客さん方みたいに、引っかかる方も多いですねぇ。 そう言って、店主は悪戯っぽく笑う。 ぽかん、と店主の言葉を聞いていた2人は、 一瞬の後に顔を見合わせ、小さく吹き出した。 「貴方、先刻は躊躇いなく花の名前を言うものだから、 てっきり詳しいのかと思ったのに」 「…悪かったな。白いアネモネは、知人のところで見たことがあったんだ」 言いながら、サガは並んだアネモネを選んでいく。 赤、ピンク、黄色、白と、件の薄緑も。 サガが選んだアネモネは、店主の手の中で 見る間に美しいブーケを形づくる。 「…花に、興味をもったのは、つい最近だ」 「…それは、また、何故?」 自分も花を買おうか買うまいか、買ったとして、祖国にいる兄に 見せるためには、やはり氷づけにするしかないか…などと 思いをめぐらせていたシドは、 ぽつりとつぶやかれた言葉でその意識をサガに戻す。 店主に代金を支払い、ブーケを受け取ったサガは、 躊躇いなくそれをシドの眼前に差し出し、微笑む。 「花を、贈りたい相手が出来たので、な」 |