さざめく波の声、微笑みを投げる太陽、多少の気むずかしさは あるにしろ 一定の恵みを与えてくれる母なる大地。 ……ギリシア。 その首都、アテネから車でわずか数時間ほどしかない場所に―、 神話の時代から地上の守護神とされている女神アテナの神域がある。 常人の目からは隠されているものの、神意は数千、数万の時を越えて なおそこに気高く座していた。…誰が、予期し得ただろう。 そのアテナの神域の中枢に、彼女の兄の恩恵をも拒む闇が巣くうとは。 誇り高き神意に異を唱える者が出ようとは。 心華やぐ鳥の歌声すら閉め出す重厚な扉の奥の奥…神域の中枢、 アテナ神殿の膝元である教皇の間において、その影は深く 宛われた座に沈んでいた。 足を組み、大理石の冷たい肘掛けに無造作に頬杖をついて、 眠っている…または思案しているように見える。 流れ落ちる滝の如き青銀の髪、彫りの深い顔の造作、 眉間に刻まれた哲学者の苦悩。光を拒む身でありながら、『影』は いまなお歌い継がれる美神アポロンの具現のようでもあった。 と、それまで微動だにしなかった『影』が、ふと固く閉じた目蓋を震わせる。 その下からゆっくりとギリシアの空を思わせる蒼眼が現れ、長い指が 物憂げに傍らに放り出されていた仮面を掴み上げた。 その時を見計らったかのように、『影』のいる玉座正面の扉が 重い音を響かせ、そしてそれをくぐもった声が追いかける。 「失礼致します、教皇。只今御使者の方がお見えになりました。」 「分かった。……少しお待ちいただいてくれ。」 はっ、という短い答えを残し、気配が遠ざかっていく。 それを十分に確認してから、『影』は手にした仮面を ゆっくりと肌に当てた。その冷たさに、表皮から真皮、更には 体の芯までもが凍り付き…、そして『影』は、あるべき姿を取る。 即ち女神アテナの地上代行者―、教皇という姿を。 「お待たせして申し訳ない。」 伝令に案内されて謁見の間に足を踏み入れた使者を 威厳に満ちた声が迎える。ゆったりとした法衣と 長い肩掛けを捌き、壇上から降りてくる教皇を認めた伝令は、 飛び上がってその場に膝をついた。その後ろに従っていた使者も 同様に膝をつく。しかし此方は動揺など微塵も見せず、あくまで 典雅な礼であったが。流水の如き柔らかな動作に感心しながら、 教皇は労いと共に伝令に退室を促した。 歓喜に頬を染めて出ていく彼を見送ってから、教皇は改めて 使者に向き直った。頭頂から踝までを覆い隠す外套で、 その風貌は伺い知れない。しかし、先程の仕草、また気の配りようから この使者が『あちら』ではかなりの身分であること、 そして同時に屈強の戦士であることは容易に知れた。 「顔をあげて…、楽にしていただいてかまわない。」 そう告げたのは、言葉の意味通りでもあり、また使者の顔かたちを 見ておきたいという好奇心からでもあった。 この神域以上に閉鎖的な他神の聖域に暮らす者。 教皇ならずとも興味を持つことは禁じ得ないだろう。 その意を知ってか、使者はゆっくりと立ち上がり、 目深に下ろしたフードを背に払った。 現れたのは、ギリシアではついぞ見かけることのない まさしく雪のような白い肌と教皇自身の其れとよく似た青銀の髪。 「それでは、お言葉に甘えまして。」 そして相手の意を探る、挑戦的な琥珀の眼差し。 「……このギリシアでその格好では、さぞ辛かったであろう。」 「いえ、我が祖国ではこのような陽の光を浴びることなど無き故、 逆にこれが無ければ困るのです。」 ふわりと微笑み、外套の前止めを外す青年は、年の頃は 20歳前後と見えた。 『舐められたものだ』 心中呟き、教皇は硬質な仮面の下で渋面を浮かべる。 青年の祖国…、オリンポス十二神とは異なる、北欧の古代神 オーディンの聖域アスガルドに彼が親書を送ったのは ひと月前のことであった。 彼以外にはごく僅かしか知り得ないことであるが、彼は、 正統な教皇ではない。前教皇を暗殺した簒奪者であり、また 降臨したばかりの女神アテナを殺そうとした大罪人でもあったのだ。 その事実は13年の昔にひとりの少年と共に葬られた。 ……葬られたはずだった。 しかし、女神は辛くも生き延び、彼が想像もしなかった場所…、 日本という極東の島国で成長していたのだ。 そして、当然ながら彼女の本来あるべき座を取り戻すべく 青銅聖闘士を育成、彼らの試合と景品となる黄金聖衣を餌に 彼に誘いをかけてきた。特に焦りはしなかった。 女神が生きていることは勿論予想していなかった事実であったが、 所詮は小娘。しかも周りを囲む戦士は、最下級の青銅ときている。 よしんば黄金聖衣をその中の誰かが纏ったとしても―ありえないことだが―、 黄金聖衣を9つ有する彼の側が圧倒的有利にあるのは必定。 しかし、12ある黄金聖衣のうち、彼に疑問を感じて…、 もしくは何らかの意図をもって聖域から離反した者が2人。 これらを併せれば敵は黄金聖衣を3つ有することになり、 優位にあるとしても此方の被害も大きなものになってしまうだろう。 其処で…、黄金聖衣奪還と、アテナ抹殺の為に彼は 白銀聖闘士を日本に送り込んだ。 今頃は青銅聖闘士の首級を上げている頃だろう。 そして同時に、彼はもうひとつ行動を起こしていた。 それは、今彼の目の前にいる使者…、北の聖域アスガルドへ 援助を要請することだった。 内乱を外部に、しかも他神を崇める者らに曝すことは 気のすすまぬことであったが、もしアテナが彼らに助力を要請したらと 考えると、そうも言っていられない。 北欧伝説にある7人の神闘士。 黄金聖闘士と互角ともいえる力を秘めたまま、彼らの纏うべき 神闘衣は神話の時代からアスガルドに眠っているという。 万一アテナの呼びかけにオーディンが答えたら。…神闘士が集ったら。 懸念でも何でも、不安材料は少ないほうが良い。 そう考えての親書であった。 しかし、その答えを携えてやってきたのが、未だ少年の域を出たばかりの若造とは。 黙す教皇をどう思ったか、青年は再び膝をついて礼を取った。 そして、よく通る声が口上を紡いでいく。 「猊下におかれましては、私のような若輩者がまかり越した次第を 苦く思し召しかと存じます。されど…、此度においては僭越ながら 私が我が主に願い出たこと。主に咎はありませぬ。」 「……ほう。」 声調子から、この若造が気後れも緊張もしていないことが知れる。 意表を突かれた思いで伏せられた面を見遣ると、青年はゆっくりと顔をあげた。 其処には矢張り、先刻と変わらぬ優雅な笑みがある。 「……それで、オーディンの地上代行者殿のお返事は如何に?」 「我が主におかれましては、猊下よりのお言葉とみにお喜びのご様子。 しかし…、」 「内乱を其方に持ち込むのは余としても気がひける。 しかし、恐れ多くもアテナより預かっている聖闘士同士が ぶつかりあい、無用の血を流すことを思えばそうせざるを 得なかった。……其方との同盟が成立すれば、謀反者とて 愚かな振る舞いには及ぶまい。 そう考えてのことだったが……。」 「我が主は戦を好みませぬ。同盟には賛意を示されましたが、 その謀反者とやらへの威嚇のための兵士派遣はいたしかねるとの 事で御座いました。」 「……そう、か。」 北の地上代行者は、年若き乙女で、争いを厭うと聞いている。 それ故に青年が持ってきた答えも、ある程度予想の範囲内のものだった。 教皇としては、アテナ側にアスガルドがつかぬことを確認できれば其れで収穫は 十分とは言えずとも得られたのだ。 思いを巡らせ、教皇は淡々と報告する使者を見つめた。 地上代行者の返答は予想の範囲内であったが… 「して。……そなたがわざわざ志願して遠くこの地へやってきた意は? 使者殿。」 「我身の自慢…、となりますこと、どうかご容赦下さいますよう。 私は、祖国では 知られた家の長子に御座います。」 「そうであろうな。その所作からも伺える。」 「恐縮にございます。そして…私が使者に志願した理由…、それは、 我が主が厭うた助力を、主になりかわり猊下に差し上げる為。」 「…………。」 青年の琥珀の瞳が、明かり取りからの僅かな陽光を受けて輝く。 それは、闇に潜む肉食獣の其れ。 穏和な印象を与える青年の、内なる闇を垣間見たようで教皇は知らず息を呑んだ。 「そなたの名は。」 使者は婉然と、その問いに答える。 「……シド、と、申します。猊下。」 シドの申し出に対して、教皇は直接の返答を避けた。 万分の一の可能性とはいえ、謁見の間では誰が其れを漏れ聞くか知れない。 聞かれてやましい…というほどの内容でも無かったが、このような事例に対する慎重さは彼にとって常であり、かつそれ以上にこの青年が信用できるか否か…、その意図を質すには、幾分適切でない場所と思われたためである。 雑兵に命じ、教皇の間の一角にある客室に客を案内させた教皇は、今その部屋へと歩を進めていた。自身の寝室と同じくらいに重厚な造の扉を開くと、革張りのソファに浅く掛けて、暮れゆく空を眺めている青年の姿が目に入った。 「寒くはないか…、と、愚問だったかな。」 謁見の間とは違い、大きく明かり取りが取られた客室。 振り返り微笑むシドの瞳が、豊かな採光を受けていっそう鮮やかな琥珀色に輝いた。教皇に拝した時身に付けていた厚手の外套も、襟の詰まった礼服も脱ぎ捨て、彼は今それらよりは遙かに薄手の法衣を身に纏っている。幾ら暖かなギリシアの春とはいえ、それなりの高度に位置する教皇のまでは日が落ちると多少の冷え込みを免れない。それを容れての発言であった。口にしてから失念に気付いた教皇の言葉を、青年は好意的に返す。 「お心遣い感謝致します。 ……図々しくも湯殿までお借りしてしまって…、着替えまで。」 「気にすることはない。……それに、私が引き留めたのだ。 当然の事だ。」 そう言って、教皇は跪こうとするシドを制し、彼の隣に腰掛けた。 「私は用心深い…、そなたが信を置くに足る者か、 確かめておきたくてな。」 「……。」 黙するシドに、教皇は手ずから卓上のワインをグラスに注ぎ、勧めた。 辞するのも無礼と、素直にグラスを受け取り、其れに口をつける。 目の前にいる教皇は、相変わらず硬質な仮面で顔を隠しており、その感情は伺えない。 よしんばそうでなくとも、一癖もふた癖もあるであろうこの男を読むのは困難と思われた。 しかし、シドはあえてその道を選ぶ。 「信用して頂かなくとも此方はいっこう構いませぬが…、 それでは私にも益が無い。」 ぴり、と周りの空気が尖るのをむしろ心地よく受けて、シドは続ける。 「不躾を承知で言えば、……そう、例えば貴方が女神アテナの名を語る 簒奪者で 貴方の言う謀反者が本物のアテナだとする。」 鈍色の仮面の下の素顔は伺い知れないが、漏れだした小宇宙に異変があった。 それを見逃すシドではなく、更にたたみ掛けていく。 「貴方の要請は、失礼ながらよくあるお家騒動のバターンに 当てはまるのですよ。 正統な 跡継ぎに難癖をつけて、 他の貴族を抱き込み当主の座を奪い取る…、 というパターンに ……ッ?!」 ふいにシドは言葉を途切れさせた。 静かに彼の弁を聞いていた教皇が、ふいに体を震わせ始めたのだ。 まさか本当に…?と、推測が真実と遠からぬところにあることに驚きつつ、シドは次なる言葉を紡ごうとした。しかし、それは明瞭な音とはなりえなかった。それよりも早く、彼の首を教皇が締め上げた為だ。 「……ッ、猊下……ッ?!」 「シドと言ったか。そなたの見事な洞察力は賞賛に価する。 が、賢明とは言えぬな。美しいカナリアは、鳴かずとも 姿を愛でられればそれで良いものを。」 ソファに引き倒され、容赦なく締め上げられながら、シドは信じられないものを見ていた。教皇の豊かな青銀の髪が、毛先からゆるゆると漆黒に染まっていく様を。驚愕に目を見開く彼を押さえつけたまま、教皇は甘く囁く。 「心配するな。命は取らぬ。そなたの助力は有り難いからな。 ただ…、二度と余計なことを囀らぬようにはさせてもらうが…な。」 片手で喉を絞めあげながら、空いているもう片方の手を教皇はシドの額の上に翳した。 「が…、はッ…」 首の骨がきしきしと悲鳴を上げている。逃れようと、シドは教皇の腕に爪を立てた。しかし、彼はくぐもっら笑い声を漏らすのみで、指の力が緩む気配はみられない。 翳された手にどす黒い小宇宙が収束していく様をありありと感じ、此処に来て始めてシドは恐怖を感じていた。 「怯えることはな………ッ、貴様ッ?!」 「……?」 目まぐるしい状況の変化についていけず、シドは再び目を見張った。 先刻漆黒に染まったはずだった教皇の髪が、今度はもとの青銀との斑となっていたのだ。 そして、教皇本人は脂汗を浮かべて問答めいた独り言を口走っている。 「貴様…、分かっているのか?!異国人ではあるが、 こやつの言葉で万が一聖闘士らが動くようなことがあれば!!」 「おまえは何時も早計なのだ。今だとて、冷静に振舞っていれば 何も問題は無かった。自ら我らが秘密を暴露した己の愚かさをこそ 呪うがいい。」 「どうとでも言うがいい。しかし、そうだ私の所為とはいえこやつはもう真実を知った。 ……殺しはしない…、私の忠実な傀儡とするのだ。 何故邪魔立てする必要があるのだ?」 吐き捨てて、教皇は問答を終えた。 しかし、その折りに締め上げる手の力が緩んだ機会をシドは逃さず、 教皇の手を払いのけていた。 「余計なキズをつけたくはない。逃げるな。抵抗は許さぬ。」 「………っ、」 肺が空気を求めて、急速に活動を始める。 そのため起こる息切れを無理に押さえ込み、シドは再び伸ばされた腕を避けた。 だが、その反動で足がもつれ、再び倒れこんでしまう。 教皇は、それを楽しむかのように、ゆっくりと彼に近づいていく。 「私の考えは、間違っていなかった…」 上下する胸を押さえながら、シドは独語する。 教皇の腕が、再びシドを押さえ込む。掌が、首を包み込む。 それにも構わず、シドは言葉を続けていた。 「簒奪者。強大な力を持つ神の傀儡。…私が求めていた者。」 ぐ、と手に力をこめようとして、教皇は眉を顰めた。 シドに触れている手が、刺すように痛む。強張って動かない。 目をやると、彼の手は薄い氷に覆われていた。シドはその手に、 そっと自らの手をそえ、首からひきはがした。そして素早く間合いを取る。 「一点に限れば、私にもあなたの動きを止められるようですね。」 「そのようだな。」 教皇の手に小宇宙が収縮し、氷を粉々に砕き落とす。 「落ち着いて下さい。先刻の内容が知れて困るのは、私も同じ。 あなたの秘密を漏らすことなどいたしません。それに、私は、 もとよりあなたの事業の一助となると…申し上げておりますのに。」 シドは、聞き分けない子どもを諭すような笑みを唇にのせていた。 毒気をぬかれ、教皇はどさり、と、もとのソファに座り込む。 「それに。万一あなたの小細工が露見し、我がアスガルドと聖域が諍うことになれば それは、まったくの無駄。女神が無傷で残っては意味がない。」 教皇の体から、殺気が薄れていく。それを感じ取ったシドは、教皇との間合いをつめる。 臆している様子ではない。警戒を怠ってもいない。 どこまでも優雅な所作で、シドは教皇の足元に腰を下ろした。その膝に手を置く。 そんな彼を見る教皇の目。仮面ごしに覗くそれは、静謐さを取り戻していた。 「私は、神の一助となりたいのです。」 駄目押しとばかりに吐かれた台詞に、教皇は一瞬息を呑み、次いで笑い始めた。 「はっ!…はははははっ!…私を神と申すか?」 「私は、私の望みを叶えてくれる者を神にいただきます。」 躊躇い無く言い捨てたシドを見詰め、教皇はぽつりと呟いた。 「我が半身ですら厭うこの私を、認めるというのか。」 半身。その言葉に、シドはわずかに肩を揺らす。そして確かに首肯する。 「睨下。これよりは私があなたの半身となりましょう。」 目を細め、教皇はシドを凝視する。 膝に置かれた手を取り、その掌を、己の口元にあてた。 教皇の呼気が、シドの掌をくすぐる。 呼気は、ひとつなぎの言葉を紡いで言った。 即ち、 『汝、我が手にて破滅への鏑矢となれ』
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