水面に咲く花




それはまだ、人間と自然が互いに尊びあっていた時代のこと。
誰も知らない海の底には、人魚族のお城がありました。
お城には、全ての海の族を治める気高い女王がいました。
彼女は日夜その歌を祈りとして、海原を行く全ての者たちが
平穏に航海できるように、海の神に捧げていたのです。
女王の名をヒルダといい、かの有名な悲劇の姫の上の姉でした。
女王は、妹を失った悲しみから、王位を継ぐと同時に全ての海の民に、
海が上に出ることを禁じてしまいました。
当時はまだ女王の妹の話を知る者も多く、民は悲しみのうちに
この命に従ったのですが、時が過ぎ、その悲しみの記憶が
ただの哀しい物語になるにつれ、若者を中心として、
女王に対する不満が囁かれ始めたのです。
その中でも、とりわけ海が上の世界に憧れていたのは
女王の遠い親戚に当たるアルベリッヒという名の若者でした。
彼は、女王と、中の妹フレア姫を除いては、まさしく
この海始まって以来と囁かれるほどの美貌の持ち主で、
なおかつ最高の頭脳をも有する人魚だったのです。
ただし、性格の方はあまり評判が良くありませんでしたが。
さて、このアルベリッヒはある日、海が上への憧れに耐えかねて
女王に直接懇願に出向きました。
「親愛なる女王陛下、私はこの海が下の世界で学び得ることは
 全て学んでしまいました。次なる場として、
 是非にも海が上の世界に出たいのです。
 お許しいただければ、得た知識を使って、必ずや
 女王陛下の国を今よりもなお美しく豊かな国にして
 ご覧にいれましょう。」
若い人魚の申し出に、女王は美しい眉を曇らせました。
「アルベリッヒ、貴方の高名は聞き及んでいます。
 けれど、海が上の世界は、文献では計れぬほど恐ろしい
 危険に満ちた場所。残念ですが、許すわけにはいきません。」
「確かに、けれどそれが問題なのです、女王陛下。
 私を始め、多くの若者は文献でしか外の世界を知りませぬ。
 故に、いくら年長の人魚に危険だと諭されても、それを真実
 聞き入れられぬのも道理だと思いませんか?
 若さ故の愚かさだと言われればそれまでですが。
 だからこそ私は、海が上を調査し、直に見た世界を皆に伝え、
 昨今いや増す女王陛下への不満を晴そうとも考えているのです。」
「アルベリッヒ……」
純粋培養の女王は、それがアルベリッヒの口上だとも知らずに
深い蒼の瞳を潤ませました。
確かに彼の言うことは正論だと思えました。
けれども、正論云々の前に彼に降りかかるかも知れない
危険への不安が拭い去られた訳ではありません。
なおも心配して思いとどまるよう説得する女王でしたが、
そのたびあれこれとご託を並べられて、結局折れてしまいました。
ため息をつきつき、せめてもと女王はアルベリッヒに
王家秘伝の『人間になる薬』を与えました。
数百年前は怪しげな魔女に代価を支払ってのみ
手に入れられた其れは、今はかくも簡単に作られているようです。
ただし、『真なる姿を取り戻す薬』について、
女王は何も語ってはくれませんでした。
ただ、海に帰りたくなったら私をお呼びなさい、と言っただけでした。



薬を首にかけた採集袋に入れて、アルベリッヒは海面目指して
意気揚々と泳いでいきました。
夢にまで見た海が上に顔を出すと、其処には海溝よりもなお暗い闇が
天上を覆い、丸い黄色がかった大きな真珠が浮かんでいます。
それが文献にあった『ソラ』と『ツキ』であることは
直ぐに分りましたが、もうひとつ、海の上、
アルベリッヒの目の前に浮かぶ巨大なものは
どうしてもその名を思い出すことが出来ませんでした。
彼は知らないことですが、人間が『フネ』と呼ぶそれに興味をひかれ、
アルベリッヒはそろそろと船体に近づいて、中を覗き込みました。
其処では、『ツキ』よりもなお明るい光が充ち満ちて、
鮮やかな『どれす』を身に纏った人間族がくるりくるりと回っています。
「……ふむ。文化程度はやはり此方が大分上か…」
古の姫がかつてそうしたように、アルベリッヒは船内を
きょろきょろ見回していたのですが、その目に映るのは
若き人間の王子ではなく、人々を取り巻く文化品でした。
これでは女王の心配する悲劇など起こりようがないのですが、
其処はご都合主義ということで、突然嵐が起こり、
彼の目の前でフネはあっという間に沈んでしまったのです。
とりあえずおぼれかけている人間達を大きめの木片に
掴まらせてやりながら、アルベリッヒ自身は
木材の加工技術を見るため、小さな木片を探して
周囲を泳ぎ回っていました。
ようやく気に入る大きさのサンプルを手に入れ、
ご満悦で一旦海の底へ引き返そうとしたその目に
深く沈んで行くキンキラ衣装の人間が映りました。
一瞬、人間サンプルに…という考えが浮かびましたが、
次いで女王の怒り顔も浮かび、アルベリッヒは渋々
その人間を浜まで連れて行ってやりました。


薬を飲んで人間の体になったアルベリッヒは
王子を引き上げ、傍らに腰を落ち着けました。
月の下で見る王子は、ゆるくウェーブのかかった
ライトブラウンの髪と、男らしい精悍な顔つきの美男子でした。
その素晴らしい容姿に、科学オタクのアルベリッヒも思わずじっと
その顔を覗き込みました。そうして、冷えた体を擦って
温めてやるうちに、彼の頭にはある考えが閃いたのです。
「なかなかいい男だし、側に置いてもむさ苦しくない。
 それに財力もありそうだ。こいつを使えば、
 調査も捗るかも知れない。」
にんまり笑うと、アルベリッヒはいきなり王子の頬を
ぴたぴた叩き始めました。
かの姫のように、謙虚に身を隠すなんていうことは
彼の頭にはありませんでした。
なにしろ彼のモットーは、有言実行、または
『昇進のためならたとえやってなくても他人の手柄も奪ってしまえ』
……でしたから。
「う……?」
王子の頬が、少し痛々しく赤くなってきた頃、漸く彼は
うっすらと目を開けました。
その目の前には、満足そうに微笑む美人の姿があります。
船が難破したことは覚えている王子は、アルベリッヒの手を
強く握ってこう言いました。
「ありがとう、君が私を助けてくれたのだな。
 是非、我が父の城に来て欲しい。」
そうして、此処で王子がこれ以外を口にしても
彼の住まいに押しかけるつもりだった人魚は
是非もなくその招きに応じたのです。


さて、成行きでそのまま城に住むことになったアルベリッヒは、
王子の助力で短期間のうちに第一の目的である地上の調査を
ほぼ終えてしまいました。
「精が出るな、アル。」
羊皮紙に向かうアルベリッヒのもとを、毎日のように
王子は訪ねてきました。
ある時は菓子を、またあるときは古書を、と
アルベリッヒの好むものをわざわざ手土産にして。
「おまえのおかげだ。…ジークフリート。」
最初こそ調査のために利用していた王子のこのような行動を
鬱陶しいと思っていたアルベリッヒでしたが、
もう少しで任務が終わり、帰れると言う今ろになって
ふと彼の胸に兆す感情の変化に気付いたのです。
それ以来、彼の王子に対する態度は、微妙に変化しました。
といってもそれまで無視だったのが、問いにぶっきらぼうに
返事をするのになった程度でしたので、周りはまったく
気付いていませんでした。
それでも一向に構わないと、アルベリッヒは思っていました。
当の王子が、気付いてくれているのなら。
事実王子は彼の変化に、それはそれは嬉しそうに笑うのです。
半年あまり、幸せな生活は続きました。
しかし半年が過ぎてから徐々に、王子の笑顔は曇っていったのです。


かつて、女王の末の妹姫の恋人がそうであったように
この王子にもまた将来を誓った婚約者がいました。
その相手は、王子の国のはるか北方に広大な領土を持つ
大国の王子でした。この王子とジークフリートは、数年前に
開かれた世界国王会議でそれぞれ兄王、父王に同伴した折りに出会い、
互いに想い合う仲となったのです。
婚約にまで持ち込む経緯は、ジークフリートにとって
まさに茨の道を歩むがごとしでした。
ジークフリートの父王は、各国の中でも最大の国力を誇る
かの国との縁組みを手放しに喜んだのですが、
肝心の王子の肉親、彼の兄王の憤りは凄まじいもので
一時は危うく戦争にも発展しかけた程でした。
ジークフリートは知らぬことながら、かの兄王バドは
若くして王位についたために、早くからその肩には
不似合いな重責を負うことを余儀なくされていたのです。
逃げだそうと思うたび、その都度彼を支え、慰めていたのが
ジークフリートの思い人である王子シドでした。
こうしたこともあって、バドは双子の弟王子を
それこそ目に入れても痛くないほど溺愛していたのです。
シドの必死の懇願で、今はなんとかその怒りを収めている
バドでしたが、今更のジークフリートの迷いが知られたらどうなるか。
考えただけでも頭が痛くなる、むしろ頭をかち割られた方が
マシな気がする問題でした。
その上、彼との結婚式は、もう二月後に迫っていたのです。
苦労の末に手に入れることとなる、北方の従順で美しい王子と、
思いの通じ合った、けれど扱いにくい気の強い美人と。
どちらも同じくらい愛している王子は、心を決めかねて悩んでいたのです。


王子の苦悩を余所に時は過ぎ……やがて、式の一週間前になって
北方から延々続く長い婿入り行列がやってきました。
先頭には、王自らが輝く銀のマントを羽織って、腰には見事な
剣を携えて進んできます。跨る馬もまた見事なたてがみを
細かに編み込んだ素晴らしい馬でした。
見張りの兵から、王御自らがお出ましとの報を聞いて、
ジークフリート王子も、その父王も慌てて城門まで降りていきました。
颯爽と城内に乗り入れた北方の王は、駆けてきた親子に
烈火のごとき視線を投げました。
思わずその迫力におされて父王は立ち止まりましたが、
ジークフリート王子は臆することなくバド王の前に進み出、
丁寧に礼をしました。
その姿に鼻を鳴らし、バド王は腰に帯びた長剣をすらりと抜き放ちます。
「久しぶりだな、小国の王子。……よもや
 心変わりなどしてはいないだろうな?」
太陽を反射して白く輝く切っ先を喉元に突きつけられる事実よりも、
その言葉に内心を見透かされたような気がしてジークフリート王子は
思わず固まりました。
「そのような…ことは、けして。」
かろうじて答える王子の顔には、うっすらと陰りが見えます。
様子のおかしい婿に、目敏い王は片眉を器用に上げてなおも問いただそうとしました。
「ジーク……!!」
その時でした。
ジークフリートの婚約者殿が、王と王子が盛んに火花を散らす場にやってきたのは。
シドが現れるやいなや、バドは剣をおさめ、何食わぬ顔で馬から降りました。
その目にはすでに、ジークフリートのことなど映ってはいないようです。
心中ほっと胸を撫で下ろしながら、王子もバドの視線を追いました。
二つの視線の先に、兄王と同じく銀のマントを羽織ったシドが
僅かに頬を染めて、駆けてくるのが見えました。
その姿を見るや溢れ出す愛しさに突き動かされ
ジークフリートもその腕を広げ、恋人を受け止めようとします。
しかし、シド王子を受け止めたのは、眉に皺寄せた彼の兄王でした。
駆けてきた王子の腕を掴み、その体を腕に絡め取ったのです。
「式を終えるまで、弟に触れることは許さん、と言った筈だ。」
冷たく言い捨て、そのまま王は弟王子の肩を抱いて城内へと入っていきます。
その腕の中でシドがもがいているのがちらりと見えましたが、結局兄王に
押し切られてしまったようで、戻ってくる気配はありませんでした。
自国の、また北の付き添いの兵らが気の毒そうに取り残された王子を
見守る中、ジークフリートものろのろとその後を追って城へと入っていきました。


歓迎の晩餐が終わると、矢張りバド王は弟王子を連れて
客間へ引き上げてしまいました。
他の面々もまた、思い思いに散っていき、
片づけられた大広間には、ジークフリート王子と
アルベリッヒだけが残されました。
「……素直で、扱いやすそうな婚約者殿だな。」
食事も小鳥のエサほどしか口にしなかったアルベリッヒは
グラスワインを手にぽつりと呟きました。
毒のある言いように苦笑しつつ、王子はその横に立って
アルベリッヒの視線を追います。
出会った日と同じく、月明かりに照らされた地上は、
美しいけれど寂しげな様相を浮かべていました。
暫くの沈黙の後、先に言葉を発したのはアルベリッヒのほうでした。
「……あの王子と、結婚するのか。」
「……。」
感情の伺えないアルベリッヒの問いに、王子は沈黙で答えました。
黙って俯く王子に目を向けることなく、アルベリッヒはさらに続けます。
「コブ付も同然だ。あんな厄介な奴の何処がいいんだ。」
「……バド王はともかく、だ。シドは良い人だよ。
 慎ましやかで従順だ。それに、彼の国の後ろ盾は魅力的だし。」
「なら、何を迷っている。」
吐き捨てる口調に、王子はぐっと言葉に詰まりました。
顔を上げれば、何時にもまして冷たいアルベリッヒの目が
此方を向いています。
「かたや身よりのない馬の骨、かたや大国の王子。
 どちらを選ぶべきかは分っているはずだ。」
「私は、おまえをそのように思ったことはない!!」
いっそ冷淡なアルベリッヒの言葉に、王子は思わず声を上げました。
「……どう思って頂いても、私は何の富も貴方にもたらさない。王子。」
「アル……!!」
伸ばされた腕をすり抜け、アルベリッヒは広間を後にしました。
早足に自室に戻ると、アルベリッヒは古ぼけてしまった採集袋を広げ、
海底から唯一持ってきた文献を広げました。
それはかつて、彼が鼻で笑った哀しい物語を記した伝承書物でした。
ぱらぱらと頁をめくり、人魚姫の項を読み進めます。
『王子を殺して。人魚に戻るにはそれしかない。』
遙かな昔、ヒルダが言ったであろう台詞に、
アルベリッヒは頬を歪めました。
あの時、女王が口を濁した理由は此処にあったのです。
「ご心配には及びません、女王陛下。自分の始末は自分でつける。」
勢いよく本を閉じ、アルベリッヒは再び窓に向かいました。
そして、一晩中そこから動きませんでした。


その日、空は何処までも高く晴れ渡り、盛大な婚礼の式典は
豪華な客船の上で行われました。
広く造られた甲板には、沢山のテーブルが並べられ、
その上にはまた各国の珍味が所狭しと並んでいます。
立食会場の片隅には、楽団が場所を占めて、楽器の調整に励んでいました。
「ジーク。」
兄王がしつらえてくれたのだという礼服を着て、
シドはジークフリートに微笑みかけました。
その柔らかな笑顔を昔と変わらず愛しいと思いながらも
アルベリッヒもこうして素直に笑ってくれたら…と、
ジークフリート王子の心は無意識に赤毛の君へと向かいます。
そんな自分を浅ましく、またシドに対して申し訳ないという気持ちで、
王子の笑みは自然暗いものになってしまうのでした。
他人の感情の起伏に敏感なシドは、今朝から婚約者の様子が
おかしいことに気付いていました。
どうやら尋常でない様子のジークフリートの苦しみを察し、
笑顔を引っ込めると、彼の前に膝をつき、その顔を覗き込みます。
「ジークフリート、何か悩みがあるのなら言って下さい。
 …もうすぐ他人ではなくなるのです。隠し事はしてほしくない。」
真摯な態度で語りかけるシドに、その
『他人ではなくなる』事に迷っているのだとどうして言えるでしょう。
けれど、こんな思いのままで式を挙げるのは、シドに対しても
侮辱を与えることになる、と王子は思い直し、
きっぱりと顔をあげました。
「シド、…言いたいことがあるんだ。」


時至り、盛大なファンファーレが鳴り響く中、アルベリッヒは
間もなく王子がやってくるだろう通路に身を隠していました。
その手の中には、しっかりと短刀を握って。
「ジークフリート、悪いが俺は彼の姫のようにお人好しではない。」
嘯いて、汗の滲む手で束を握り直した時、革靴の音が響いてきました。
その音は、一定のリズムを刻みながら、ゆっくりと近づいてきます。
その音が、直ぐ側まで来たことを確かめ、アルベリッヒは通路に躍り出ました。
そして突然現れた彼に驚くジークフリート王子の腹に、
思い切り手の短刀を突き刺したのです。
「ア、ル……?」
引き抜いた刀身には、ジークフリートの血がべったりと付着し、
手元まで滴り落ちていました。
苦しげに呻くジークフリートの側から慌てて飛び退き、
そのまま走り出そうとしたアルベリッヒの足を止めたのは、
他ならぬ王子その人でした。
「アル、待て……」
瞬間、電流に打たれたかのようにアルベリッヒはびくりと肩を震わせました。
振り返ったその目には、困惑と悲しみが見え隠れしています。
そんな自分をごまかすように、アルベリッヒは声を上げました。
「私は、あの姫のようにはならない!この手に入らないのなら、……」
殺してやる、と続いた台詞は、前半に比べてとても小さく、
かろうじて王子の耳に届くかどうか、というものでした。
なんとか聞き取り、王子は脂汗を滲ませながら、笑います。
「本当に…勇ましい姫君だ。」
苦痛を堪えて身を起こし、通路の壁にもたれ掛かると、
王子は血まみれの手でアルベリッヒを招きました。
おずおずと側に来るのを待って、その体を抱きしめます。
狼狽えたのは、アルベリッヒのほうでした。
「なにを……!!」
「言いたいことがあるんだ、アル。」
息も荒く囁かれ、何を今更、とアルベリッヒの目に涙がこみ上げます。
散々迷って、挙げ句自分の前でシドを褒めるようなことを言っておいて。
思い切り突き飛ばしてやろうと王子の肩についた手は、
しかし次の瞬間力を失い、傍らにだらりと垂れ下がりました。
「……愛してる。…シドにはちゃんと言ったよ。婚約は、解消した。」
王子の真の気持ちが、アルベリッヒの鼓膜を震わせたのです。
「なに、を……、」
馬鹿なことを、と呟くそばから、涙が溢れて頬を伝います。
あとからあとからアルベリッヒの頬をぬらすそれを
指で拭ってやりながら、王子は更に言葉を吹き込みます。
「今朝、気付いた。まったく情けないな…シドの笑顔を見ても、
 いつの間にか思考はおまえへのものにすり替わってる。
 …今の今まで気付かずに…おまえも、シドも、泣かせてしまった。」
許して欲しい、と掠れる声で告げ、王子は激しく咳き込みました。
ひゅう、と喉が嫌な音をたてるのを聞き、アルベリッヒの体は
今更ながらに震え始めます。
自分は、何かとんでもない早とちりをしてしまったのではないかという
恐怖がアルベリッヒの中に芽生えていました。
「あ、…してる。私っ…の、側にいて、欲し……い。」
とぎれがちになる言葉、徐々に暖かみの失せていく王子の体。
その目がゆっくりと閉じられるのを見た時、アルベリッヒは
なりふり構わず叫んでいました。
「ジーク、ジークフリート!!……っ、誰か、王子を……!!」
泣き叫ぶアルベリッヒは、駆けつけてきた兵士により
ジークフリートから引き離され、城の地下牢に放り込まれました。
暗く、冷たい牢での辛い暮しも、自らの手でジークフリートを
殺してしまったという悲しみの前にはたいした意味も持ちませんでした。
ジークフリートの消息も知れぬまま、アルベリッヒは
日々をただただ人形のように呆として費やしていたのです。


それから、幾度月が昇ったのかも分らなくなった頃
ようやくアルベリッヒは地下牢から出されました。
その体は痩せて、長期間の監禁に身体機能も衰えており、
立ち上がって歩くことすら辛い様子でした。
「……どうした、手錠は?」
鍵を開けたっきり突っ立っている兵士に、ぞんざいに尋ねます。
山高帽を目深に被った兵士は、それを受けておもむろに
手をだすよう指示しました。
仮にも王子を傷つけたのだ、極刑は免れない、と心を決めていた
アルベリッヒは目を閉じ、深呼吸をして両手を兵士の前に差し出しました。
そのため、あくまで気高いその様子に、兵士の口元が緩んだことには
気付かないままでした。
ひやりとした感触は、手首ではなく、指に来ました。
予想もしなかった場所に、驚いて目を開くと、
其処に立って帽子を脱いだ兵士は、
長らく彼が思って止まなかった人でした。
「な…な、」
あんまり驚きすぎて言葉もないアルベリッヒに、
兵士に扮したジークフリートは苦笑します。
「すまない。もっと早く出してやりたかったんだが…
 老臣たちを説得するのに時間がかかって。」
済まなさそうに告げるジークフリートと、指に輝く指輪とを
見比べていたアルベリッヒは、大きく見開いた目から再び涙を零しました。
それを、あの日のように拭ってやり、改めてジークフリートは
アルベリッヒの体を抱きしめます。
「すまない……」
「……っ、おまえは何時も、謝ってばかりだ。」
先回りするから、ちっとも私は謝れない、と涙ながらにわめく
アルベリッヒでしたが、その腕はしっかりとジークフリートの背に
まわされていました。素直でない恋人と懐かしい悪態に、
知らずジークフリートの頬に笑みが浮かびます。
「……あ、」
「愛してる!!」
ジークフリートが言い終わる前に、アルベリッヒは早口に言いました。
そう何時も先手は取らせない、と言わんばかりの早口の告白は
ムードも何もないものでした。
ジークフリートは今度こそ声を上げて笑い始めます。
そうして、何が可笑しい、とむくれる未来の花婿さまを連れて、
薄暗い地下牢から、光指す場所へと歩き出したのです。
こうして、アルベリッヒは人間の元に留まることに決め、
底知れぬ深い海の底には、彼の調査文書だけが届きました。
その膨大な資料の最後は、
『海が上は危険にあらず。過去に惑い、
 失うことを恐れてはならない。』
という句で結ばれていたと言います。