北の国の物語




「王位はバドに…シド、そなたは兄をよく助けるのだぞ。
 バド、常に民のことを考え、父を凌ぐ良き王となるのだぞ……」
世界の中心の孤島を取り巻く、巨大な環状大陸のうち
北方ほぼ全域を占める、大国家の王はそう言って
亡くなってしまいました。
残されたのは、双子の世継ぎの君。
兄の名をバド、弟をシドと言います。
バドは、父の枕辺に立って瞠目し、シドは父王の手に
口づけをしてそれぞれに大好きだった父に別れを告げました。
ゆっくりと立ち上がる二人の背に、何十もの視線が痛いほど
突き刺さります。
それは、前王の危篤の報を聞いて集まった忠実な臣下の目であり、
また同時に新たな王を見定め、その隙を狙う
簒奪者の目でもありました。
不快げに鼻に皺を寄せるバドの手は、その表情の不敵さからして
信じられないことですが、細かに震えていました。
若干17にしてその双肩にかかる責任は、並大抵のものでは
ないのです。
居並ぶ諸侯らが、自分が振り向き、新たな王としての宣誓を
待っている ことは明らかでした。
しかし、それが分っているだけに、余計バドの足は 竦むのです。
唇を噛むバドの手を、そっと包み込む温かさがありました。
驚いてそちらを見ると、少し下方に自分を気遣う双眸があります。
兄の視線と出会い、シドはバドの手を握る力を強めました。
ほんの少しはにかんでみせる弟の顔に、バドは自信と、
温めてきた願いを取り戻しました。
そうして、彼はゆっくりと振り向き、若き日の彼の父を彷彿とさせる
確かな弁論でもって、臣下たる者らの厳しい目を驚かせました。
バドが口を閉ざす頃、その場に愚かな考えを抱く者はなく、皆
心からの敬意をもって新たな王に頭を下げたのです。
此処から始まって、バドの視界には常に弟王子の姿がありました。
シドはけして出過ぎたまねはせず、しかし真実バドが救いを欲するときには 必ず側で兄王を助けました。
こうして兄弟は、何時も互いに支え合って生きてきたのです。

その形が変化を見せたのは、バドが王位についてから
早5年が経過した年でした。
その年は、世界中の王が集まり議論を交わす『サミット』の年で、
バドもシドを連れてそのサミットに臨んだのです。
其処で、会議が行われている数時間の間に、あろうことかシドの心に
割り込む者がいたのです。
会議を終えてバドが出てきたとき、シドは見知らぬ男と楽しげに
言葉を交わしていました。目に見えて不機嫌になる王の様子に気付き、
従者のひとりがシドのもとへ駆けていきます。
従者が何事か耳打ちし、漸くこちらに気付いた様子のシドは、
隣の男を促してバドのもとへ歩いてきました。
「兄上、お疲れ様です。」
「……そちらは?」
労いの言葉には軽く頷いておいて、バドは弟王子の傍らに立つ美丈夫に
目を向けました。
如何にも育ちが良い様子の彼は、王の問いに恭しく礼をします。
「東方国の王の子、ジークフリートです。」
「散策していたら、偶然会って…東方のお話を聞かせて頂いたのです。」
ジークフリートを見上げ、首を傾げて同意を求めるシドの表情は、
兄であるバドですら初めて見る顔でした。
訳の分らない不快に、その場は早々に辞したのですが、それ以来
シドはジークフリートと文を交わしあうようになり
彼を話題にすることが多くなりました。
そして、サミットから3年目のある日、シドはバドに
彼の決心を告げたのでした。
即ち、ジークフリートと婚約したいということを。
「彼の元へ行くことを……許していただけますか?」
『許せるものか!何処にも行かせない、おまえは…
 此処に、俺の側にいるんだ!!』
思わず口をついて出かけた言葉を、バドはぐっと呑み込みました。
これまでシドが、己のことは二の次にして自分に仕えてくれていたのを
知っていたからです。彼が幸せに笑っていられる、そんな場所を…
そんな国をつくりたいということが、バドの長らくの願いでもありました。 不安そうなシドの頭を撫で、バドは彼に出来る精一杯の笑みを浮かべました。


式が半年後に迫った頃から、シドはこれまで以上に兄王の側にいました。 執務の間も、また夜の寝室にまで潜り込んで残された時間を
惜しんでいました。
それは、式を翌日に控えた日も変わりませんでした。
「いよいよ明日か……」
シドの頭を、ゆっくりとした動作で撫でながら、バドはぽつんと呟きます。 その言葉に、シドもより強く兄王の胸に縋りました。
ジークフリート王子の心変わりを未だ知らない夜でした。


式当日、何時になく緩慢な動作で式典用の衣服に着替えていたバドは
荒っぽいノックと共に駆け込んできたシド付の従者の報告を聞き
言葉を失いました。
『婚約は破棄された』と。
そう聞いたときのバドの心境は複雑でした。
大事な弟を辱められたという怒り半分と、またどうやら弟王子を失うことは なくなったのだという安堵も半分。
自分の心に戸惑いながら、王はシドの元へ足を運んだのです。
ドアを開けると、部屋の中央に備え付けられた机に伏していたシドは
慌てて顔を上げてその目元を拭いました。
痛々しく腫れた目蓋に、感情は一気に怒りの方向へと向かいます。
しかし、内心の激情を押し殺して、バドは静かにシドに歩み寄りました。
涙が止らないのでしょう、躍起になって目元を擦っている手を握り、
ゆっくりと下ろしてやります。
ぼろぼろ涙を零しながら、兄王を見上げていたシドは、
白い面をくしゃくしゃにしてその胸に顔を埋めました。
声を殺して泣く弟の体を抱きしめ、優しく髪を梳いてやりながら、
バドは今まで漠然としか感じたことのなかった情動が
完全な実体を為して体を満たし始めたことに気付きました。
その彼の腕の中で、啜り泣きがやがて小さな嗚咽に変わり
シドはそっと顔を上げ決まり悪そうに微笑みました。
涙に濡れた頬は中途半端に引きつって、成功したとは
言えない笑顔でしたが。
その頬に残る筋を、唇で拭ってやりながら、バドは
幼い頃からそうしていたようにシドにキスをします。
腫れた目蓋、頬。そして、唇に。
最後に触れるだけのキスを唇に落とした後
また無理に微笑もうとするシドの顔が目に入りました。
何時も何時も、自分に心配をかけまいと笑顔で側にいてくれる
弟王子に、どれだけ救われてきたことでしょう。
そして、今は彼の報が辛いにもかかわらず、変わらず
自分を気遣ってくれる。
そう思った時、形を為した弟王子への思いは堰を切って溢れ出したのです。
まだ胸に置かれたままだった手を捕らえて、その甲や手のひらに
唇を押しつけ、一度目を閉じてから、ひたとシドを見下ろしました。
その目は痛いほど真剣で、視線に圧され、シドはおびえの中で
兄王の次の言葉を待ちます。
「……今度のことで懲りただろう。分っただろう?」
何が、と返そうとして、シドは言葉を呑み込みました。
強い力でバドの腕の中に引き込まれたからです。
「俺から離れようなどと、愚かなことを考えるから
 こうして泣くことになるんだ。」
バドの声には、苛立ちと不満が滲んでいます。
「俺の側を離れることは許さない。シド……」
それは、命令口調以外の何物でもなかったのですけれど、
シドの耳にはプライドの高い兄王の
哀願と聞こえました。
顔を振り仰ぐことは出来ませんでしたが、背に回された手が
『あの時』と同様小刻みに震えているのが感じられます。
不思議に、婚約を解消された悲しみは薄れていました。
兄を支えなければならないという使命感からでしょうか。
失ったもの以上に、求められていることを知ったからでしょうか。
それとも……いえ、それは今は、シド本人にも分らないことでした。
この後二人が幸せになれたのか……それは、この後北方の大国が
バド王の統治の元によりいっそうの栄華を極め、その傍らには
何時も笑顔で控えるシド王子の姿があったことから
容易に伺い知れることでしょう。