可愛いだけじゃダメかしら? 本格的な冬―というわけでなくとも、アスガルドの風は年中冷たい。 そんな身を切る寒さの中、オーディン像の前で佇む一人の姿があった。 目を閉じ、手を組んで、熱心な祈りの最中であるらしい。 「我が神オーディン…日々の幸福を感謝します。 今日が祖国の民全てにとって良き日でありますように…」 民全て、と口の中で呟きながらも浮かぶのは今彼にとって何より大切な存在。 駄目だ駄目だと首を振り、彼―シドはもう一度祈りを復唱して この日の勤務につくべく宮内に戻ろうとした。 だが、その時。 『毎日毎日飽きもせず幸せそうな顔でやってくる。 …結構なことだが、こう続くと少々面白くないな。』 低く高く、耳鳴りのように響く、特徴或る声がシドの背に被さってきた。 「…誰かいるのか?」 肩越しに振り向くが、依然其処には凍り付いた像が建っているだけ。 首を傾げ、もう一度その前に戻る。 だがその時、彼を今まで感じた事のない奇妙な小宇宙が包み込んだ。 『人間、そう幸せなど続く筈がないのだ。 真実を見せてやろう、ここ数日の惚気の礼にな…!』 「ッ、うわ…っ?!!」 シドを包み込んだ小宇宙の膜は徐々に狭まり、シドの体にぴったりと 貼り付いた。そして小宇宙が初めと同じく突然消え去ったとき、 其処から『シドの』姿も消えていた。 「遅い。」 ため息と共に吐き捨て、ジークフリートは苛々と人差し指で机を叩いていた。 コツコツと絶え間ないその音を聞きながら、バドはそんな彼に呆れて同じくため息を吐く。 二人が何をしているか…といえば、上級士官同士の朝の会合の為、 この場にいないシドを待っているのだ。 遅いと言ってもまだたった5分、予定時刻を過ぎただけなのだが。 たまにはシドも寝坊くらいするだろう。 特に今日は…朝方まで散々泣かせてやったのだから、起きてくる確率の方が低いかもしれない。 共にいるにもかかわらず会話のひとつも持とうとせず、片方は眉間に皺を刻み、 片方はにやにやとしまりの無い表情を浮かべている。とことん合わない二人である。 そんな二人のいる会議室に突然ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。 「何だ?」 顔を廊下側に向けるジークフリートと、素早く立ち上がって様子をみようとドアを開くバド。 そのバドの足に、何かが勢いよくぶつかって来た。 「あっ、バド様!申し訳ありません、すぐに連れて行きますので…ほら、おいで。」 「怖くないからね〜?」 軽く息を弾ませている兵士二人は、ぎこちない笑顔でバドの足下のものに 手を差し伸べた。 何なんだ…とバド自身も自分の足にしっかとしがみつくものを見下ろす。 其処で目に入ったのは、小さな体を覆うどう見ても大きすぎる白布をずり落ちぬよう 両手でしっかりと持ち、縋るように自分を見上げている薄茶の… 光の加減で琥珀にも色を変える瞳に、青みがかった銀髪という、 どうにも見覚えのある年の頃は6〜7才の男の子だった。 「何か…どっかで見たような…」 「どうした?」 遅れて一同のもとに来たジークフリートも、その男の子を見て 眉を寄せている。彼もバド同様、妙な既視感に襲われている様子だ。 一回、二回。 首を傾げ、はたと手を打つ。 「バド…おまえも男なら認知してやれ。こんなところまで父親を捜しにくるなど、 見上げた心意気の子ではないか。」 「バッ…俺はそんなヘマしねぇよ!こらおまえも離れろ!」 ジークフリートの言葉を受けて、兵士達にまで急に疑いの目を向けられ始めたバドは 躍起になって足下のちまい体を振り払おうとした。 だが、彼がそうすればするほど小さな手は強く彼の服を握りしめ。 「おい……」 勘弁してくれよ、と心中呟いたところで、男の子は再び顔を上げ、 何か逡巡しているように口を開いたり閉じたりし始めた。 子供特有のふっくらした頬と体つき。 やっぱりどっかで見た…と、バドが一瞬動きを止めた時、彼は衝撃的な一言を口にした。 「あにうえ…」 「え?」 「…パパ、ではないのか?」 目を点にするバドと、素っ頓狂な声で確認を取るジークフリート。 だが、男の子はふるふると首を振って再度あにうえ、とかぼそい声でバドを呼んだ。 「…シドなのか?」 目眩を覚えながらもしゃがみ込んで視線を合わせると、彼は大きな目を見る間に潤ませ バドにしがみついた。 「………っ」 「シド…」 見知った顔とはいえ、6才の身長しか持たない今のシドにとって 近衛兵二人に追いかけられるということは恐ろしいことだったに違いない。 弟に関しては超人的なほど聡い兄は、彼の涙の理由をいち早く察して 無表情に呆然としている近衛兵二人を振り返った。 「あの…」 「バド様、私たちはですね…」 知らなかったんです、と逃げようとする二人に平等に一発ずつ拳骨を喰らわせて ゆっくりとシドを抱き上げると、途端に彼は兄に強くしがみついた。 「しかし…何があったんだ?何でまたこんなちんちくりんに…」 若木のようにしなやかだった弟の体を思い出し、バドは心底残念そうな声を出す。 だが、兄の問いにもシドは困惑した様子でふるふると首を振るばかりだ。 「分りません…朝、いつものようにオーディンに祈りを捧げていたらいきなり。 …こうなる前に、何だか人の幸せは面白くないとか何とか呟く声を聞いたような…」 「中身はもとのままか。…ふむ…そんな捻くれた事を言うのはアルベリッヒくらいだろう。 また奴が一枚噛んでいるのではないか?」 とは、泣く泣く退出する二人の兵を宥めていたジークフリート。 「いえ…私も一瞬そう思いましたけれど。若返り薬や機械を開発したなら彼のこと とっくに売り出しているはずです。それに、声が全く違いましたし。」 「……ふむ…。」 真剣な顔で意見交換する二人を見ながら、何となくこの場にいないアルベリッヒを哀れに思うバドだった。 「取りあえず、ジークフリート。」 「分っている。おまえはシドについていてやるといい。明日になれば戻るかもしれん。」 悪いけど今日は休暇を、と口にする前にジークフリートは肯いた。 あまりにあっさりと下りた休暇願いに一瞬目をぱちくりさせたバドも、 悪いな、という言葉と苦笑いとを残し、シドを抱いて足早に自室へと向かって歩き出した。 途端に静かになってしまった会議室でひとり書類を集めながら、ジークフリートはぽつりと呟く。 「バドの奴、普段からああなら良いものを。」 不満げな口調とは反対に彼の口元には笑みが浮かんでいる。 そして素直なバドという珍しいものにお目にかかれた代りとはいえ、 この書類の量は矢張り多いなと書類を抱えて自室へと戻っていった。 双子がまず向かったのは、事件現場となるオーディン像のある広場。 しかし二人の必死の捜索も効を成さず、次ぎに彼らはオーディンといえばヒルダ様、と 安易な思いつきの元主の部屋を訪ねていた。 謁見の間、というものもあるヴァルハラ宮だが、ヒルダは其処を使うことを あまり好まないらしく、神闘士相手では特に取り次ぎ無しでも 私室を訪れれば気軽に会ってくれるのだ。 「失礼します。」 きちんと身形を整え、息もぴったりに礼をした凸凹コンビに室内の視線が集中する。 間の悪い事にというべきか、時刻は昼下がりのお茶の時間。 ヒルダの部屋には、彼女の妹フレアと給仕の女官数名が同席していた。 しまった…と心なし顔を引きつらせるバドの危惧通り、 途端に部屋は可愛い〜!との絶叫に満たされた。 「バド様のお子様ですか?!」 「嫌だわ、私前々からバド様の事お慕いしておりましたのに。」 「あら、私だって!」 蜂の巣をつついたような喧噪の中、バドの側にいたはずのシドは いつの間にか女達の間でもみくちゃになっている。 中でも目を輝かせているのは、可愛いもの大好きなフレア姫だ。 思い切りシドを抱きしめ、頬ずりまでしている。 「あの…ちょっ…」 幾ら子供のなりでも中身は21歳の成人男性。 真っ赤になって、シドは黙って此方を見ている兄に救いを求めた。 それを受けるまでもなくバドもムッとした顔で弟の首根っこを摘んで自分の腕に取り返す。 「あん!」 残念そうな声を上げてシドを解放した女性達とは裏腹に、シドは心底ほっとした様子で 再びバドの腕の中に収っている。 「ヒルダ様、人払いを願えますか? 大事なお話があります。」 「ええ…皆、下がってくれますか?」 一瞬ええ〜、と小さく抗議の声が上がるも、女官達は大人しく部屋を辞していく。 最後の女官が礼をしたところで、 ヒルダの側に陣取っていたフレアは勢い込んで姉に縋り付いた。 「お姉様、私は?私はいいでしょう?」 こんな面白そうな事にのけ者にされてたまるかとばかりに必死な妹に気圧され、 ヒルダは伺いを立てるようにバドを見た。 主の妹である彼女を邪険にも出来ず、バドも不承不承頷いてみせる。 「……それで、話とは?」 「は……」 突っ立ったままだった双子に椅子と手ずから煎れた茶を勧めて、ヒルダは おっとりと口火を切った。まだ彼女らの知らない事実を抱えた少年は、先ほど同様に フレアに捕獲されている。 真っ赤になっている弟にちらと哀れみの目を向け、バドはぽつりぽつりと 事の次第を語り始めた。 「まあ、ではこの子は…」 姉妹に驚きの顔を向けられ、シドは可哀相なほど縮こまった。 彼の所為では無いとはいっても、現在彼のいる場所はこの国の主たる者の妹の膝上なのだ。 「すみません…」 蚊の鳴くような声で謝るシドは、大きな目を恥ずかしさの所為か潤ませて姉妹を見上げた。 「言おうとは思ったのですが、その…タイミングが無くて。」 いきなり揉みくちゃにされたのだからしょうがないよな、とシドを眺めるバド同様の考えを 姉妹も抱いたらしい。二人目を見合わせて、ネコ撫で声でシドの柔らかな髪を撫で始めた。 「まあ、私たちが悪かったのですよ、シド。」 「そうですわ、貴方は何も悪くないのです。泣かないでいいのよ?」 よしよしと二人がかりでシドをあやす二人は、本当に中身は21歳の青年だと認識したのかと 問いたくなるほど。 しばらくシドに構った後で漸く顔を上げたヒルダは、心なしか笑いを堪えているような… 中途半端に深刻そうな顔でこう告げた。 「シドの体から不思議な小宇宙を感じますわ。 仮にオーディンが関わっていると考えて、 ギリシア始めこの国の神も兎角人間らしい性格です。 シドの祈りが何かの嫉妬を買ったかのかもしれませんね。 …大丈夫ですわ、多分飽きたら元に戻してくれると思います。」 「多分って…」 「飽きたらって……」 あまりにあまりなヒルダの言葉に、双子は悲痛な声を上げた。 「じゃあ、もし戻らなかったら?」 「それは其れ…神のご意志ですわ。」 ヒルダはにっこりと残酷ともとれる判定を言ってのけた。 結局何の進展もないまま、バドはヒルダの部屋を後にした。 バドは仕事があるでしょう?の一言により、後ろ髪引かれる思いで 姉妹のもとに弟を残したまま……。 「?バド?シドはどうした?」 「ヒルダ様達が世話をしてくださるそうだ。」 如何にもやれやれと行った様子で戻ってきたバドを、丁度訓練の最中だったジークフリートは目を丸くして迎えた。 彼の当然の問いかけに、バドは肩を竦めて首を振る。世話と言っても中身は…と言いかけて、そんな事が通じる相手では無いことを悟ったジークフリートは無言で部下の心労を思い瞠目した。 その頃、姉妹の部屋では。 ピンクや赤、水色や黄…といった色とりどりの服が山と積まれ、 その中央で体を震わせるシドの姿があった。 「可愛いv」 「ね、私の見立てはなかなかでしょう、お姉様っv」 弾んだ声で凍り付くシドに次はこれね、と新たな服を押しつけるフレアと、 それに合うリボンやブローチを選び出すヒルダ。 山積みの服は因みに、彼女ら二人の幼い頃のものである。 白い上品なレースのドレスを着せられているシドは、黙ってそれに 耐えていたが、フレアが押しつけた次の拷問服…ピンクのフリル付ドレスと 同じくピンクのリボンを確認するや、ふらふらとその場に座り込んでしまう。 「シド?」 そして心配そうに俯いたシドを覗き込み、姉妹が隙を見せた刹那、 渦中の彼は弾かれたように立ち上がり、ドレスの裾につんのめりつつも 全力疾走で逃げ出したのだった。 「兄上…っ!!」 本日二度目のふくらはぎへの衝撃に、またか…と眉を寄せたバドは ひっつき虫と化した弟の姿に目を剥いた。 絶妙の角度で彼を見上げるシドは、白いドレスを身に纏って またしてもぐすぐすとしゃくりあげていたのだ。 大きな瞳からは大粒の涙がこぼれ、ふくふくとした頬はピンクに染まっている。 『……これは、これで…』 いいかもしれない、としっかり鼻の下を伸ばして弟を抱き上げる。 「どうした、すっかり泣き虫になったな?」 だらしなく伸びた鼻の下と、溶けそうな声に、ジークフリートなどは軽い目眩を覚えたそうだが、シドは別段気に止めた様子もなく兄にしがみつきながら、眉間を押さえる 近衛隊長を見つめた。 「もう嫌です…お二人とも私を着せ替え人形にするんですよ? お願いです、こんなナリですけど仕事は出来ます。 だから……。」 「いや、しかしだな……」 仮にも病人(?)に仕事をさせるわけにもいかないと、ジークフリートは 彼にしては珍しく助けを求めるようにバドを見た。 そのバドも彼同様渋面を浮かべている…が。 「なら兄上の部屋に行きます。誰か監督がいれば心配ないでしょう?」 大きな目を潤ませた弟の言葉に、彼は瞬間的に頷いていた。 「そうだな、途中で気分が悪いとか言い出しても俺がいれば安心だな!」 「……待て待て待て、余計心配だ;」 じゃあそういうわけで、とジークフリートにとってはうそ寒い笑顔で シドを抱いたまま踵を返す彼の肩をがっしと掴む。 「なんだよ?」 邪魔するなと言わんばかりのバドの視線。 だがそんなもの慣れっこのジークフリートは怯まない。 「自分の仕事でも手一杯の奴が監督など出来るか。ここは私が。」 「ああ?おまえこそ訓練やらの間シドをほっとく気か? そんな真似は断じて許さんぞ!」 凡に、いえ別に放っておかれても私は平気です、というシドの言葉は黙殺された。 先ほどはシドの為と引いたジークフリートだが、部屋にふたりきりという 美味しい状況が掛かっていては黙っていない。 対するバドも、憎い恋敵とふたりきりなどという事態を見過ごせる訳が無い。 例えナニも出来ない幼子であっても、シドはシドなのだから。 睨み合う二人だが、その均衡はほとんど諦めの中にいるシドによって破られた。 「……ジークフリートに迷惑をかけるわけにはいきません。 兄上のお仕事は私がお手伝いしますから……」 他ならぬシドにそう頼まれたのでは、彼に断ることなど出来るはずもない。 暫し固まってから、ジークフリートはがっくりと肩を落とし 「……頼む。」 とバドにシドを(シドにバドを?)託したのだった。 数時間後。 夕闇が迫る頃、1日の職務を終えたジークフリートは バドの部屋のドアをノックしていた。 面倒くさそうな返事と共にドアを開いた部屋の主は、ジークフリートを 確認して、器用に片眉を上げた。 何処か揶揄するような彼の雰囲気にジークフリートも眉間に皺を寄せるが、 声を荒げることなく目でシドは?と問いかける。 そんな彼を無言で招き入れ、バドはそのまま奥の部屋へと先導していく。 「ああ。……寝てる。やっぱ小さいと体力が違うからな。 一山片づけた後寝ちまったよ。」 ドアを開ける口元が綻んでいる。 今日は珍しいことばかりだ、と表面には出さずに感心しながら バドについて部屋を覗くと、ベッドの上で丸くなっている シドの姿が目に入る。毛布にくるまって静かに寝息を立てる 彼を見ているうちに自然ジークフリートの頬も緩んでいた。 「可愛いな。」 「ああ……」 ほのぼのとシドを見つめる二人の男。 この時が、彼らが唯一意見を同じにした最初で、そして恐らく最後の瞬間であった。 「シド?」 夜勤を終えて帰ってくると、シドは入り口正面のソファで眠っていた。 今日の仕事は午前2時くらいまでだと言っておいたので彼を待っていたらしい。 暇つぶし用らしい分厚い本に突っ伏して眠る姿はたいそう可愛らしく、 半開きの唇だとか、ピンクの頬だとかがバドを誘惑する。 そう…大きな目をくるくるさせてじゃれついてくる弟に、暫くは このままでも…と思っていたバドも、この現象が一ヶ月を越える 今ではそう楽観視出来ない状態になっていた。 ……言ってしまえば体の事情。 20代の若者がひと月も我慢していることのほうが奇跡なのだ、とは 本人談だが、兎も角彼は切羽詰まっていたのだ。 身体年齢は6〜7才…頑張ればなんとかならないか…? この際どちらかといえば頑張るのは彼よりもシドのほうだが、慢性的な 欲求不満により其処に考えは及ばなかったようだ。 ごくりと唾を飲み込み、眠り姫ににじり寄っていくオオカミ。 傍らに膝をつき、そっと手を伸ばすと、ふとシドが身じろぎして 目を開いた。やましさのため、瞬間的に手を引いてしまうバド。 きょとんと目を瞬かせていたシドだったが、何かに思い当たったのか 哀しそうに目を伏せた。流石は双子。以心伝心はお手の物である。 「ごめんなさい…こんな体じゃお相手も出来なくて。お辛いですよね…」 泣きそうな顔でこう言われたのであっては、さしものバドも 『頑張れば何とか。』 とは言えない。それでなくても幼子相手に不埒な思いに駆られたことを 察されて気まずいのだ。変なトコで相通じるんだよな、と顔を引きつらせ ながら彼は俯くシドの頬にキスをした。 「どんな小さいのでもおまえはおまえだろ。最悪あと10年くらいしたら また楽しませてもらえるだろうし。ああ、でも。」 「……?」 「その頃には俺も30だ。若いおまえについてけなくて俺のが捨てられるかもなあ?」 「そんなの!」 茶化すような兄の声音につられたか、シドも頬を赤らめつつ微笑んだ。 少し高い位置にある兄の首に手を回し、シドからも兄の頬にキスをする。 「ずっと貴方だけだから…」 はにかむ弟に対し、内心穏やかでもいられない兄であったが あと10年の我慢だと頭の中でひたすら『色即是空』を唱え続ける。 と。 抱きしめ合う双子の耳に、バドには初めて、シドには聞き覚えのある あの声が響いてきたのだ。 「…そっちの男はいざ知らず、おまえはますます幸せになったようだな。 予想外だ。……ったく、人間なぞ欲の塊とばかり思っていたが…面白くない。」 声と共に白い影が、薄暗い室内にぼうっと浮かび上がる。 影は徐々に細身の体を形作り、ひとりの男の像を結ぶ。 その褐色の肌した男には、端正な顔ながらその至る所に 痛々しい傷があった。 「誰だ!?」 シドを庇いながら小宇宙を燃やすバドと、その兄を守るべく小さな体いっぱいに 気迫を満たす弟。 その姿に男はますます渋面を浮かべ、それからほうっと息を吐いた。 忌々しそうにもう一度面白くない、と吐き捨てて 節ばった手をシドに向けて一振りする。 そして現れた時と同様、煙となって消えていった。 「……何だったんだ?」 ほっと全身の緊張を解いたバドの肩にかかる重みが突然増す。 腕の中に目を移すと、其処には以前の、彼曰く『若木のようにしなやかな』 シドの姿。幸いというか、大きめの夜着を来ていた為に、素肌を晒す事態には 至っていなかったが、それでもちんちくりんの裾からは、太股が半分以上露出してしまっている。そんな格好で兄に寄り添っている弟は、彼自身まだその変化に気付いていないらしく、兄の問いに 「さあ?」と男の消えた辺りを見つめている。 「……。」 「ホントに何だったんでしょう。折角来たのなら戻してくれても……、兄上?」 いきなり押し黙ってしまった兄を振り返ると、バドはじっと自分を見つめていた。 「兄上?」 舐めるような視線に身を捩ると、太股に何かが、当たった。 心なし力を増して行くように思われる、腰に回された手だとかに嫌な予感に駆られ、逃げようとする間もなく、シドは絨毯の上に押し倒されていた。 「駄目ですってば!…こんな体じゃ…兄上を犯罪者にするわけにはいきません!」 「……おまえな…よく自分を見てみろ;」 「駄目……え?」 漸く己を見下ろしたシドは、元のサイズに戻っていること、ついでに半裸といって過言ではない格好であることを 確認して顔を真っ赤にした。 嬉しいやら恥ずかしいやら、そして同時に大ピンチ。 反応に困って狼狽えるシドの頬にバドはもう一度優しくキスをした。 「お帰り。」 「……ただいま。」 この後の運命は容易に想像がつくけれど、取りあえずはと答えを返し、彼は久々の兄のぬくもりに酔いしれるのだった。 後にヒルダに聞いたところによると、あの男は神話の時代から続く 責め苦を負っている神ロキであるということだった。 永遠に続くそれから少しの間でもと精神体で悪戯をすることは、実は アスガルドでは珍しくないことらしい。 「……なんで教えてくれなかったんですか……」 とヒルダの説明に揃ってくってかかった双子に、彼女は笑顔でこう言った。 「教えたところで元に戻る訳じゃありませんし…第一、面白くないでしょう?」 |