「沙織さぁん!」



バタン、とけたたましい音を発てて樫造りの大きな扉が開かれた。
観音開きになった扉から顔を覗かせたのは、今や沙織にすっかり懐いてしまった貴鬼だ。
「こら、貴鬼。」
その後ろからは、そんな貴鬼に苦笑いしながら星矢ら青銅4人と、
ようやく凍傷から回復した邪武が続く。
しかし、にこやかだった6人の表情は、室内を見渡した途端に険しく歪んだ。
中でもその変化が最も著しかったのは、最後尾の邪武であったろう。
「星矢。」
おっとりと微笑む沙織の前に跪いている男―それは、
つい先日死力を尽くして戦った神闘士の1人、
ゼータ星ミザルのシド…であった。



海皇との戦いの終結からまだ3日―始まりの序曲であった、
灰色の聖地よりの刺客の到来からもまだ、日は7度と昇っていない。
そんな浅からぬ傷跡に、彼らは思いもかけず直面したのだ。
真っ先に行動を起こしたのは、矢張り邪武であった。
「てめえ!性懲りもなくお嬢様を!!」
叫んで、素早く沙織とシドの間に身を滑り込ませる。
「おい待てよ、邪武…!!」
「そうだ、最早アスガルドの神闘士は皆…」
今にも殴りかかりそうな邪武に、氷河と紫龍が戸惑いつつも待ったをかけた。
「じゃあ、コイツは何だってんだ!!」
「邪武……!」
息巻く邪武を、沙織がたしなめるように呼んだ。
鶴の一声、黙り込む邪武。広間に、緊張を孕んだ沈黙が降りる。
「貴方…バド?」
瞬が言葉を発するのとほぼ同時に、
沙織の前に跪いていた男は、ゆっくりと立ち上がった。
「久しぶりだな、アンドロメダ。」
バドは唯一の知己である瞬に声をかけた。
場の緊張が、少しだけ弛む。
「あんたが…」
「ええ、ヒルダからの使いで…わざわざ日本までいらして下さったのです。
 バド、すみませんが返事を書くまでの間此処で待っていて下さい。
 星矢…客間に案内して差し上げてもらえる?」
「わかった。ホラ邪武!いつまで目ぇ剥いてるんだよ!行くぞ。」
今度は別の意味で握り拳を震わせている邪武に気づかないまま、
星矢は先に立って遠方からの使者を沙織の言いつけ通り
客間へと先導していく。瞬、氷河、紫龍が続き、
貴鬼が出ていってからようやく邪武も其れに習った。



通された客間で、バドは特に口を開く事も無く、
ただ窓の外で咲き乱れる花々を眺めていた。
その端正な横顔は、まさしく弟、シドと見惑うばかりで、
話を聞いていた星矢らもまだ半信半疑のまま沈黙を守るバドを眺めていた。
重苦しい沈黙を次に破ったのは以外にも貴鬼であった。
幼い子供特有の―といってもかなり無理をしているようだったが―
無邪気さでバドに話しかける。
「ねえ、聞いてもいいかい?」
唐突な問いかけに、バドは僅かに眦を開いたが、
ゆっくりと此方…貴鬼を振り向いた。
「何だ?」
「うん、お姉ちゃ…ヒルダ様とフレア様、今どうしてるの?」
お姉ちゃん、と言ってから慌てて敬称付きに改めた貴鬼に、
バドは薄い笑みを浮かべる。
「…海面上昇や津波、地震の被害の後処理に追われている…、
大分落ち着いてきているがな。」
「……お姉ちゃん達…忙しいんだね…」
心配そうに貴鬼が呟くと、バドは暫く目の前の小さな少年を見つめ…
それからその小さな頭に手を置いた。
反射的にびく、と躰を震わせ自分を見上げる貴鬼に苦笑する。
「忙しい方が良いのだ。何かすることが在れば、忘れていられる事もある。」
触れた時と同様に、唐突に離れていく手を、貴鬼はぼんやりと眺めていた。
「お兄ちゃんは、何かを忘れていたいの?」
言い切ってしまってから、貴鬼はハッとしたように口を両手で覆った。
二人の様子を伺っていた星矢、瞬らも、息を呑む。
目の前の男がなした戦いの顛末…それを思ったからだ。
静まり返る一同を他所に、バドはふと目を細めた。
「…此処は、あれの香りが強すぎる…」
「シド…さん…?」
控えめな応えに、バドは軽く目を瞠った。そして、微笑む。
「忘れたいのでは、ない。俺も、主たちも…、
 立ち止まり、意識してしまえば、
 魅かれてしまうから…。それが怖いのだ。」
ふわり、と空気が揺れるのを、貴鬼が感じると同時に、彼は立ち上がっていた。
掌を一瞬、子どもの頭上に置いて。
「書簡を頂けるようだ。行くとしよう。」
言葉が終わらぬうちに、扉が開く。
入って来た男は、立ち上がっているバドに
驚いた様子であったが、すぐに来意を告げる。
バドは無言で応じ、大股で部屋を横切っていく。
窓から吹き込み、まとわりつく風を振り払うようにして。
残された子どもと、少年たちもまた、窓の外に目を向ける。
風が舞い上げた花弁が一瞬、頼りなげな人形を成したように見えた。