ともしび



司書は既に帰ってしまったらしい。
受付には、きっちりと片付けられたノートと、ペンが並んでいた。
だが、その書庫の奥からは、わずかな明かりがこぼれている。
手持ちランプに照らし出される、一定の空間。
その中心には、目を細めて本に目を落とすシドがいた。
ランプを置いた窓枠には、既に目をつけたと思わしき書籍が五冊、
積み上げられていた。 朝から晩まで駆け回り、なおかつどこに…、
本など読む時間があるというのか。
呆れ半分に、バドはその光の輪に足を踏み入れる。
シドは本に目を落としたまま微笑み…、ゆっくりと、分厚い本を閉じた。
『目を悪くする』
暗い書庫で、ランプの明かりで本を選ぶ。
弟の悪い癖だと、バドは前々から気にしていた。
この習慣に気づき、また介入してからは、毎回諫言している。
いまだに改善されてはいないのだが。
シドといえば、だって落ち着くのですもの、
なぞと困ったように微笑んでいる。
腕を伸ばすのは、どちらが先であったろうか。
そんなことを考えている間に、シドの体はバドの腕の中に納まっていた。
唇を押し付けあう、初心な行為を繰り返す。
互いの手は、互いを抱きしめることに夢中で、不安定な二人の体は
書棚にぶつかり、また窓枠に積んだ本に雪崩をうたせ、
それでも背に回した腕は解けない。
鼻先を触れ合わせ、額をくっつけあう。
至近距離で見つめあい、二人は静かに微笑みあう。
死の瞬間に際して、シドが感じた自己犠牲、兄への献身の情は
死の瞬間に際して、バドが感じた狂おしいまでの焦燥、思慕の情は
残りの時を与えられてなお 色あせることを知らず
それどころか、その色を変えて二人の中にくすぶり続けている。
「…ランプで本を読むのはやめろ。その目に映る俺が…かすむのは嫌だ。」
駄々っ子のような言にシドは笑う。
「では、私があなたを見失わないように、もっとつよく、抱きしめてください。」





神の一葉





「あなたの頬を打つものがいれば、もう一方の頬も差し出しなさい。」
面白いものなのか、と聞くと、弟は寸分の迷いも無く、ええ、と頷く。
ふん、と鼻を鳴らし、手近な本を引き寄せ、ぱらりとページを捲る。
異教の神の言葉を綴った本だという。
「よろしければ、読んでみてください。」
控えめな提案をよこしてくれる。
自分の返事に対して、弟がどんな顔をするかなど、
十分予想できるのだが、それでも告げておかねばならない。
「…そうしたいが、俺は字が読めん。」
髪結いの義父に、子に学をつける余裕など無く、
また子は武芸にしか興味が無かった。その結果だ。
予期したとおり、弟は手にした本を繰る手を止めた。
詫びがくるかと、更なる予想をしてみたが、
弟の言葉は俺の予想を超えて気恥ずかしいもの。
彼は自分の膝をさし、
「では、私が読んでお聞かせしましょう。」
母のように、そう言うのだ。
俺は大人しく弟の膝枕に預かることにする。
ただ、そのいかにも庇護者然とした表情だけが気に食わず、
天井に置いた目を、徐々に、弟の顔へとずらして見つめてみる。
ものの十分もせぬうちに、弟の伏せたまつげは細かに震え
目元がほんのりと赤く染まっていく。
機は熟せりなどと狡猾な笑みと共に体を起し、頬に口付けしてやれば、
「あなたが口付けを下さるのなら、私はもう一方の頬も差し出しましょう」
なぞと言ってくれるものだから、
「…神の教えならば、異教なりとも従う必要があるだろうな。」
俺は、分厚いだけの神の言葉を、弟の手から払い落とした。





時よとまれ




自室の扉を開けると、暖められた空気が鼻先に揺らいだ。
暖炉に火が入っている。
寒さで強張っていた頬が、緩むのを感じた。
後ろ手に扉を閉め、コートに付着していた雪を払い落とす。
絨緞の上で、それは暫し残っていたが、やがて沈み込むように解けて消えた。
手にしたそれを、壁のフックに吊るす。
暖炉のもてなしについて、礼をすべく、その主を探すが、
気配を掴むことができない。
「ワインでも探しに行かれたか。」
旨そうにグラスを干す兄を思い浮かべると、自然笑みは深くなる。
暗いガラス窓に、己のしまりの無い顔を見つけ、
シドはきゅっと眉間に皺を寄せた。
「兄上が戻られる前に、書類の整理でもしておくか…」
呟き、机の端に積んであった紙束に手をやる。
そこで初めて、見覚えの無い冊子に気がついた。
こげ茶色の、皮の表紙。
端々が黒ずんで、いかにも読み込まれた風情を残している。
こんなもの、持っていただろうか。
不審に思いながらも、私はそれを手に取った。
ぱら、と表紙をめくる。
「……っ、」
白い画用紙の上に、木炭の線が走っていた。
その線は、私の顔…、怒っているもの、社交用の澄ました顔、
その中で一番多いものは笑顔、だった。
幸福だと、全身で訴えかけるような、この笑みを。
「…私は、こんな顔をして、あの人に向っているのか…」
冷静を保つための独白は、逆にそれを自覚させ、耳朶まで羞恥を昇らせた。
恥ずかしさに耐えながら、私はページを繰っていく。
冊子はほぼ、私の笑顔で埋まっていた。最後のページをめくる。
「……?」
最後のページは、未だ白いまま残されていた。
彼の指のあとすら、付いていない。
裏表紙を開いて確認するが、そのページだけは、
全く手付かずのまま残されていた。
「其処も、今日で埋める。」
扉が開くと共に、彼の声が被さってきた。
悪戯を見とめられた子どものように、私は肩をすくませる。
そんな私にまるで構わず、彼はつかつかと此方へ歩み寄ってきた。
手には、赤のワインボトル。
背を向けて立つ私の肩越しに、ボトルを握り締めた右腕を回す。
そして、私の左耳に囁きかける。
「おまえの、一番美しい顔を描きとめて」
わざと、なのだろう。ことさら低い声でそういうと、
彼は唯一空いている左手を冊子に置いた私のそれに重ねた。
「…あなたが、その表情を、引き出してくださる、と?」
口元にある、彼の右手。
ワインボトルを握ったその指に口付け、負けじと囁き返す。
すると彼は一瞬目を瞠り、片口角を吊り上げた。
「望むところだ」
その言葉を聞き終わらぬうちに、私は机の上に引き倒されていた。
抱きしめる腕が熱く、気がつけば夢中で、彼に縋りついていた。
最後のページを埋められた、古ぼけた冊子は、
今は 静かに 私の書棚で 佇んでいる。




三篇の小さな物語